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四月のエッセイ

異国のオペ記V

宇咲冬男

 
 入院5日目くらいだったか。急に身体がだるくなり息苦しくなった。電話機を取り「トランスレーターを呼んで」と言うとすぐ了解。
女性に替わった通訳に老人科のMドクターを呼んで貰った。診察してすぐ、ナースにレントゲン撮影の用意をさせた。部屋で撮影が出来た。「肺に水が溜まった。オペ前から気になっていた、絶対安静」と言い渡された。点滴・酸素測定・心電計・薬の吸入器などが運ばれてきた。

 明け方だったろう。胸の圧迫感で目が覚めた。Mドクターとベテランのナースが看取ってくれていた。顔を動かすと唇に指をあてられた。口をきくな!と云うこと。(肺炎・酸素ダウン・そして心不全併発・緊急入院)がここ2年の発症パターンで絶対安静よりほかはない。熱が出ないから発見は遅れ勝ちになる。    

 四・五日絶対安静の日が続いた。ベッドのホットラインも使えない。日本からの急ぎの通信は病院宛のFAXになった。やがて呼吸が楽になった。でも電話よりFAXが楽だと解った。FAXはナースが届けてくれた。ある昼のことだった。キャップのひとりのナースがベッドの側に来た。眼をまん丸にして話し掛けてきた。
「ミスターKOKUBOはUSAKIだった。日本からのFAXの宛名がKOKUBOに並んでUSAKIだった。アイホンで調べたらホームページを持って居る。プロフィルも見た。船による地球一周の途中で怪我をした。日本の有名人を看護するのは光栄。また休憩時間にきます」と、いそいそと戻って行った。

 Kナースは消灯前にやって来た。枕元にいつも置いている仕事用のキャノンを指さして「そのカメラを貸して下さい。操作はOKです。お願い。ツーショットを撮らせて!」と立て続けにせがみながら、手はカメラを取り上げていた。こちらは身動きが出来ない身。ノー・イエスもなかった。Jナースはサイドテーブルを異動させカメラを自動設定して、頬を寄せるようにVサイン。何カットもシャターを切った。自分のアイホンのカメラも使った。普段の仕事の顔でなかった。悪戯っ子のような、俊敏な立ち居振る舞いに怪我の身を忘れてこちらもはしゃいだ。

 翌日、Kナースは「ドクターの許可を受けました。私のチームのナースと記念写真を撮らせて下さい」と、告げてきびすを返すと6・7人の顔見知りのナースを連れて来た。
忽ちナース嬢達に囲まれキャノンで撮影会が始まった。彼女達は底抜けに明るい顔を見せ合った。2人で・5人でと代わる代わる僕を囲んで・・・。二日間であと2チームのナース達と記念写真を撮った。戯れにしては大げさなことだった。リハビリで廊下を歩行しているときもスナップを撮られた。撮影会騒動はドクターが、異国で独りオペ後の治療と戦っている私の無聊を慰める意味で、大目にみてくれたようだった。

 地球一周の船に再度乗れると云う希望は絶たれ、日本の病院に再入院と告げられた。落胆は酷かった。ナースに聴くと、始めから再乗船はダメと解っていて、ドクターがリハビリに希望を持たせたものと教えられた。

 日本への転院が決まると帰国の用意。着の身着のまま、だったので、外出着やバッグを買い足さねばならなかった。病院では手伝って貰えない。保険会社には、本人と一緒でないとーと、言われた。困っていたら親身になってくれていたナースのT嬢が非番を使って、買い揃えてくれた。その上、空港まで見送りに来てくれたのだった。

 退院し日本の地元の病院に転院する事になっても、二人の息子は出迎えに来なかった。出迎えを希望しなかったからだが少し情けない思いがした。退院の前日に保険会社から派遣された「搬送付き添い」のナースが打ち合わせに来た。ドクターからの退院診断書や書類の確認。血圧などの測定など、とてもてきぱきと済ませた。「明日の出迎えは午前5時半、一日掛かりで本庄の病院まで介護、付き添いをします」と言って帰って行った。シンガポール空港の出国手続きなど手慣れていた。

 JALの成田行きの怪我人用の座席に落ち着いたところでナースに聴いた。「病人の搬送に馴れているようですが、大変でしょう」
すぐに返事が返ってきた。良い事を聴いてくれました。実は海外で病気や怪我で家族の付き添いもムリな患者を無事に日本の自宅や病院に介護をしながら搬送する専門のナースです。まだ一年も経っていません。長い間、大病院のナースをやっていた。でも物足りなくなった。折りも折り、書店で見つけたのが海外から日本の病人や怪我人を介護しながら搬送する専門グループが出来たいきさつで、その体験談が書いてあった。「これだ」と共鳴しグループに加わったと言う。まだ名前は仮ですが「フライテングナース」と自称しています。二ヶ月前にはケニアからの搬送に行ってきました。厳しい介護・搬送でした。それをやり遂げ、この仕事を誇りに思っています。知識と経験・体力が要る新しいナースの仕事です」と、希望に満ちた顔を私に向けて語ってくれた。「これは記事になるのにー」と元記者の自分に呟いた。良いナースを選んでくれたと保険会社にも感謝した。本庄の病院に13時間掛けて無事に送り届けて貰った。当然だろうが病院のベッドに横になるのを見届けて帰っていった。
勿論、搬送中は血圧・酸素測定など至れり尽くせりの献身的な介護をしてくれた。フライテングナースの事はいつかまとめて書き残したい。

 本庄の病院を退院して、キャノンに収まっているシンガポールのナース達の写真をDVDに焼いてお礼に病院のナースステーションに送った。2週間くらい経ったろうか。息子が乗船前に設定してくれたフェイスブック(ナース達はどうアドレスを調べたのか)にナース達から写真や短いコメントがどさっと送られてきた。びっくりした。その後も、水着姿、グルメ・ボーイフレンド、両親などの写真を、競う様にとっかえひっかえ送り続けている。
いまや私のフェイスブックは完全に彼女等に占領されて仕舞った。

(了)

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平成24年3月27日記