宇咲冬男のご紹介 俳句四季
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「俳句四季」宇咲冬男の特集記事

 「俳句四季」平成13年10月号に、宇咲冬男の特集記事が8ページにわたり掲載されました。
冬男主宰の足跡が詳しく紹介されています。 「俳句四季」平成13年10月号より転載

 
 現代俳人の肖像 文・松尾正光
 宇咲冬男 うさき・ふゆお 「あした」主宰

天台宗の名刹に生まれ、住職の資格も得るが、
十代で小説家を志してから後、
新聞記者、俳人として活躍しつつもその初心は忘れない―
小説家の初心とともに

●プロローグ

 初心というものは、その人の生涯に纏いつき、墓場まで一緒に持ち込まれなければ納まらないものであろうか。 宇咲さんは十代で小説家を志し、今もその呪縛の中にいる。
 宇咲さんの場合も、自分の波乱に満ちた生活体験の中から止むに止まれず小説を書きたい、という実践派ではない。 創作意欲は自分の体験から噴出したというよりも、むしろ、読書や知的欲求から溢れ出たものだ。
 そういう作家に、夏目漱石がいる。
 漱石の『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』を痛快がった武者小路実篤は、「白樺」創刊号の「『それから』に就て」の中で、 『それから』を人工的な運河と評し、「自分は漱石氏は何時までも運河をつくる方で、自然の河をつくれる方でないような気がすることを悲しむ」と指摘している。
 つまり、肉体的遍歴が豊富でなくとも、漱石のように知的欲求、人工的な運河でも読者を充分堪能させることが出来るのだ。
 俳人の中でも石塚友二(池上賞)・多田裕計(芥川賞)・清水基吉(芥川賞)らは、小説家を目指して横光利一の弟子となり、 利一が弟子と始めた句会「十日会」に参加したものの、お目当ては勿論小説であった。
 そして、一度は大きな賞を得たが、残念なことに小説家としてよりも俳人としての方が名高い。 そのことについて、清水基吉は「社会的経験が殆どなく、特別な思想も持たない自分には、小説を次々に書き継いでゆくことは容易ではなかった」と語った。
 宇咲さんも小説家の仲間入りをする糸口として、宇田零雨に師事し、連句を学んだ。
 零雨は俳文学者だが、井本農一・池田弥三郎・暉峻康隆・久保田万太郎・福田清人らと青郊連句会を興し、広い人脈を持っていた。 勿論、連句にも興味はあったが、零雨は横光利一的存在でもあったのである。

●生い立ち

 宇咲さんは昭和六年十二月五日、父・小久保豊田、母・妙哲の次男として埼玉県熊谷市上中条の天台宗別格本山常光院に生まれた。 本名、小久保誠。常光院は梵字学者だった二十三世宝筴が住職になったという程、由緒ある名刹である。 宇咲さんの祖父・観田の代からこの寺の住職となり、今は兄・康田の次男・彰田が四代目を継いでいる。
 宇咲さんは森と田畑に囲まれた北武蔵の長閑な寺の境内で育った。

 蛇に遭うかつて泣虫小僧なり

 おそらく境内の雑草から蛇が飛び出して、幼い宇咲さんを驚愕せしめたのであろう。
 宇咲さんは九歳の時、父と死別してからは十二歳年上の兄が住職を継ぎ、宇咲さんの学資などの面倒を見た。 兄との間には四人の姉があったが、末っ子である。歌を作り書に親しむ郷土史家の母と姉達に囲まれて可愛がられて育ったが、兄は厳格だったという。 十歳で得度し、大学時代に住職の資格も得た。しかし、宇咲さんは、悪童達のいじめの対象でもあり、「泣虫小僧」だったのだ。
 
昭和30年 産経新聞社記者時代
●文学を志して新聞記者に

 門前の小僧、習わぬ経を読む、という諺がある。常光院では村の古老達が集まって、毎月、稲華会という句会を催していた。

 竹の子の皮をぬぎてはまつすぐに

 宇咲さんが稲華会に初参加した十一歳の時の作。いつのまにか見よう見真似で、作句のコツを覚えてしまった。
 しかし、宇咲さんが本格的に文学に魅かれたのは、熊谷中学二年の時、学徒勤労動員で肋膜を患い、静養中に寺の文学書を読みあさったことから始まる。 当時の医学水準では、当然、結核に進行し、やがて死ぬに違いない、と思われた。
 宇咲さんは自分も一篇の小説を遺して、潔く死のうと覚悟したのだ。
 戦火が激しくなると、宇咲さんの家族も当時のあわただしい世相から、免れることは出来なかった。 兄は学徒動員で出征。母は兄の代理で経を読み、葬式を取り仕切った。
 十五歳になると、可愛らしい豆僧侶が誕生した。一休さんのように檀家を回り、木魚を叩いた。 兄が戦死すれば、宇咲さんが住職を継承しなければならないのだ。
 兄の帰郷と同時に、農地改革で常光院の経済的基盤が圧縮された。宇咲さんは兄の負担を軽減するために、 将来、僧侶になる約束で比叡山から学費の援助が出る大正大学哲学科に入学した。
 しかし、小説家志望の夢が捨て切れず、卒業すると、兄に無断で産経新聞社に入社、浦和支局の記者となる。 宇咲さんに住職を譲って政界に進出したいと考えていた兄は、この裏切り行為に激怒したという。


 生きてあれば祈るほかなし涅槃の日

 昭和二十八年、その時の宇咲さんの心境である。同じ年に次のような句もあった。

 日の疲れ負ひかはほりは舞ふほかなし

『自註・宇咲冬男集』には、「文学がやりたくて新聞記者になった。しかし、記者修業は甘くはなかった。 毎日のように記者の文章や取材方法でどなられた。歯を食いしばった」とある。
 

昭和18年 学徒出陣で出征する兄・小久保康田(中央)に寄り添う
僧侶姿の冬男(小学6年)。 兄に代わって寺を守った。
 

昭和38年 師・宇田零雨(左)と
小林一茶終演の旧宅で



平成2年 中国和歌・俳句研究家の李芒氏が
冬男の中国吟を軸にして贈呈(北京)



平成4年 日英俳句交流で当時の英国俳句協会会長らとロンドン郊外の詩人・キーツの家で。左から冬男、加藤耕子


平成4年 日独俳句・連句シンポジウムの講師として渡独。左から冬男、黒田杏子、荒木忠男


平成4年 印度仏跡巡礼の旅。兄・小久保康田大僧正夫妻(左)とベナレスにて。兄は常光院に句碑を建立。


平成8年 日中俳句・漢俳交流会(北京)。左から金子兜太夫妻、冬男、相原左義長


平成9年 在日米公邸で前アメリカ俳句協会会長デミング夫人の送別会。 左から竹下流彩、石原八束、冬男、白石かずこ、有馬朗人、大矢章朔、近藤蕉肝
●師・宇田零雨との出会い

 昭和二十四年、常光院を会場に若菜会という文化サークルがあった。読書会、音楽鑑賞会、ダンススクールなどを催すと同時に、句会も行事の一つ。 この句会に誰かゲストを呼びたい、ということになり、零雨が指名されたのである。
 零雨は文芸投稿誌「文章倶楽部」の俳句欄を担当していた。宇咲さんは小説投稿のかたわら、俳句にも挑戦していたので、零雨の名前はよく知っていた。後日、

 室の花愛し飛雲にふれあえず

で、零雨の一席に入選している。
 幸いなことに零雨は、月に何回か埼玉大学へ俳句の指導に来ていた。お願いすると、気安く常光院を訪ね、  「俳句は芭蕉を読めば独学でも勉強が出来るが、連句は独りでは出来ない」 と言って、泊まりがけで連句の手解きをしてくれた。
 文学好きの宇咲さんには、物語性のある連句が面白く、たちまち虜となって、零雨主宰の「草茎」に入会し、 東京・世田谷の零雨の自宅の句会にも出席するようになった。

 椿落ち詩のよみがえる歩を得たり
 金魚居て孤独の脆坐のさだまらず
 行けどゆけど大虹のしたぬけきれず


 その頃の作である。

●最愛の妻を得る

 吹雪く夜を愛してならぬひと愛す

 昭和三十一年の作。相手は老母と二人暮らしの西川流師範の西野咲子。一人娘ということで、双方の母親は反対。しかし、翌年は、

 春の雲湧きてはあふる華燭の日

となった。そして、翌年には、

 梅雨に籠り父となることふと怖ぢぬ

『自註・宇咲冬男集』には、「妻から受胎を告げられた。不規則な生活から十二指腸潰瘍になっていたときでもあり、 うれしさと生活の不安とで複雑な気持だった」とある。
 やがて努力が認められて、東京本社の社会部勤務となり、そして署名入りの記事も書くようになる。 しかし、ますます忙しくなる一方で本命の小説は書けなかった。


 吐く息の白し今日より事件記者
 昼火事や衆愚の中に記者もゐし
 冬銀河寝顔のほかは子と逢へず

●新聞社を辞職

 昭和三十八年、宇咲さんは過労と十二指腸潰瘍の再発で倒れた。医師から入院を勧められたが、それを押して仕事に励む程の猛烈社員だった。
 しかし、仕事に没頭すればする程、虚しさも大きくなる。こんなことをしていると、いつまでも小説が書けない。なんのために兄と喧嘩してまで寺を出たのか。
 入社して十年目、宇咲さんは清水の舞台から飛び降りる覚悟で、新聞社を辞める決心をした。 さぞ、反対すると思った妻は、「そんな気がしたわ」とあっさり言ったのみ。
 宇咲さんは早速、企画会社「明広」を設立する。といっても、社員四、五人程度の零細企業であった。
 記者時代のコネを使ってデパートのPR誌や大手企業のパンフレットなどの製作を引き受け、できるだけ余暇を作って創作に熱中した。 しかし、何事も甘くはない。仕事が忙しくなると、小説どころではなかった。
 そんな折、友人から「俳句がたまっているんだろう。俺のところから出さないか」と勧められたのが第二句集『梨の芯』である。
 版元が現幻社という詩集専門の出版社だったので、詩集と間違って買った読者から「俳句を学びたいが、どうしたらいいのか」という問い合せが続出した。
 思いがけない展開に、宇咲さんはとりあえず自分の事務所に俳句講座を開設した。これが昭和五十年の月刊誌「あした」に発展するのだ。


●三度目の正直

 昭和五十五年、俳句と連句の世界のみに生きる決心で、十七年続けた「明広」を閉鎖。勿論、小説を断念した訳ではない。 しかし、小説を職業とする志向は薄れて、詩歌の世界が自分の生きる最善の道だと思うようになった。
 しかし、師・零雨から「俳句を貫くつもりなら、俳壇つきあいはするな」と止められていた宇咲さんの評価は、俳壇ではあまり高くなかった。 ともすれば連句人のように思われていたのを、印度、韓国などの旅吟を中心とした七○九句を収録した第四句集『乾坤』で跳ね返した。
 その嚆矢が、総合誌「俳句」(角川書店)に載った瀬戸内寂聴の『乾坤』評であった。寂聴は「私は宇咲氏のかくれファン」だと称し、 「私は度重ねている自分の印度巡礼の日々を思い出し、こうも的確に短詩に感動を極めつくす氏の才能に嫉妬を覚えた」とエールを送り、


 裸木ゆゑ風にも日にも光るなり
 巡礼へこころもろとも跣足なり
 乾坤の一滴となり裸なり
 銀河恋ふ星のひとつに棲みながら
 縫ひ針の光る細さの今朝の冬


など、宇咲さんのあらゆる面を引き出して懇切に批評した。宇咲さんはこれで俳壇に認められるようになったという。
 宇咲さんは旅吟を得意とし、機会あるごとに旅を繰り返した。それは海外十五ヶ国までに及び、平成十年にはドイツのフランクフルト郊外に、

 薔薇は実に人活き活きと薔薇の町

の句碑を、バート・ナウハイム市が建ててくれた。同市は世界でも有数の薔薇の産地だから、絶好の記念になった。
 芭蕉の『野ざらし紀行』に憬れている宇咲さんは、まだ初心を諦めていない。大作は墓の下で熟考するとしても、 輝く一篇は期待出来る。常に「あした」に賭ける宇咲さんの今後を楽しみにしたい。
 
 


昭和59年 中国古都巡礼と吟行の旅で。
暉崚康隆氏(左)と(西安)



Mail:fuyuo@ashitano-kai.gr.jp
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