■ 宇咲冬男の歳時記 《春》

 今年の寒は関東地方は雪も霙も降らなかった。霜柱は坪庭の土に数回立っただけだった。そのまま、二月三日に立春となった。地球の温暖化は益々進むのみ。立春の日は本当に春が来てしまった感じ。

 春立つや海がまーるく脹らめり
   冬男

 今月の二十五日から、いよいよ横浜港を船出して、ジャパングレイスが運航する客船トパーズ号で、百余日間の世界一周の長途の旅に発つ。わたしは、今年の年賀状に<年新た海のひろ道 巡らんと  冬男>と一句を添えた。不遜ながら芭蕉の「おくのほそ道」の行脚に想いを重ねた句だった。今回、同行者は誰も居ない。門人は曾良に成り様にもなれない。同行費を持つことは不可能。百余日の時間は取りようもない。第一、この旅の決意をしたのは、十月下旬。息子達は反対だった。健康を心配しての事。だから600人の乗船者が、みなお友達。
 わたしは、船旅の間に「俳句の初心者・中級」「連句」「文章の書き方」「仏教、キリスト教など」宗教に付いて、更に日本記者クラブ特別会員故に「マスメデアのあれこれ」と五講座の洋上セミナーを開く。 七十五歳になって世界一周の旅なんて考えたことは、無かった。昨年の総合俳誌[俳句界]五月号の{俳句界NOW}<人に俳句あり>と言う巻頭ページに冬男が取材された。冒頭の文章は、(風雅の誠と風狂と)と題して芭蕉が四十四歳の時に書いた紀行文「笈(おい)の小文」の百骸九竅(ひゃくがいきゅうきょう)の中に物有(ものあり)。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ…と言う書き出しだった。それから冬男は何処へ行くのか?との自問自答だった。 今度の船旅は、ほそ道でなく、"ひろ道"とした。芭蕉に申し訳ないから。
 昨年大晦日の朝まだきに電話が鳴った。九州の、ある大きな俳誌に所属している○○○です。冬男先生の俳句が好きです。今朝の朝日新聞の朝刊に連載の、大岡信先生執筆の「折々のうた」に、冬男の句集「塵劫」から選ばれ<なお天へよじ登らんと蔦枯るる>が掲載されました。「塵劫」を分けて下さい。「塵劫」は版元の文学の森に聞き知ってのこと。シリアルコード入り、五百部限定版と○○○さんは饒舌だった。大晦日の「折々のうた」に採用されるのは大変なことなのだそうだ。その曰く因縁をまくし立てられた。大岡先生には、かつて「折々のうた」には、句集「荒星」の中の<春の波力を抜けとうら返る>と言う句を載せて頂いた。先生は、ドイツに「連詩」と言う「連句」形式を取り入れた、詩人同士の交流の詩形を広めておられ、連句の理解者として尊敬している。この電話を皮きりに、知らない人、門人、などから電話、FAX、Eメイルが 夜になっても途切れなかった。 さらに一月二十七日の朝日新聞の夕刊のコラム{素粒子}欄の結びに<あかぎれが疼くよ昭和ひとけたよ  冬男>の句が引用されていた。わたしは、二十八日の、「あしたの会」の新年のつどいの準備で、総務の秋芳さんと王子の発行所泊まりだった。その“新年のつどい”で級友の黒田節さんから「「素粒子」に句が引用されている。連続ヒットだ」と言われた。帰宅したら、朝日新聞の論説室の「素粒子」担当の記者から、留守電とFAXが届いていた。冬男句の引用の許可を得たいが連絡が取れない。失礼お許し下さいと。実に丁寧な挨拶で恐縮。 お礼のFAXを三十一日に送った。やがて論説委員から、記事の掲載紙が送られてきた。 正直に言って「天声人語」はツマラナクなった。読む気がしない。でも「素粒子」はぴりりとワサビが効いていて、文章の結びに、俳句や短歌、川柳などが引用されていることは知っていた。筆者に聞くと「角川の大俳句歳時記で見つけました」と言う返事。俳句は一人歩きする。 誰かに先生は、「ことしも春から縁起がいいや」と揶揄された。もう梅が綻び始めた。梅二月とは良く言ったものだ。


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 三月は第一寄航地の基(きー)隆(るん)港に碇が下ろされる。台湾の原住民との交流がある。基隆は台北。台南と言うと暉峻康隆先生を思い出す。奥様から、主人が“くのいち連句”の連中と台南から台北の縦断の旅をします。案内があると思いますが、もう年齢、旅に出ると大酒を飲みます。冬男さんは飲めません。今回は二人部屋を幹事に用意させます。冬男さんに是非、相方を務めて頂きたいと電話を頂いた。やがて先生から自筆の誘いが届いた。観光ツアーでは組まれない台南のオランダ砦跡を訪ねるプラン。このオランダ砦は浄瑠璃のひとつ。近松門左衛門の作で時代物、後に歌舞伎で上演され、大評判になった「国姓爺(こくせんや)合戦(かっせん)」の舞台のひとつになったところ。日本舞踊の師範をしていた妻に聴くと、ストーリーを教えてくれた。明朝から日本に亡命した鄭芝竜(ていしりゆう)と日本女性との間に生まれた子の鄭成功(ていせいこう)(和藤内(わとうない))、明朝の再興に活躍した史実をもとに、国姓爺(こくせいや)(和藤内)を中心に脚色したもの。三段目の「楼門」「甘輝館」の段が最も有名、と解る。オランダ砦に立った。たんぽぽが咲き、柳絮がふわふわ舞っていた。レンガ作りの砦は海に面して荒涼とした佇まいだった。台湾に来て歌舞伎に触れた。感慨が深かった。さて、この旅は大変な旅になった。暉峻先生は自分の部屋に冬男が居るものだから、女性の幹事の部屋に“暉峻バー”を開設。わたしの部屋に帰って来るのは午前さま。時々バーを覗くと先生は薀蓄を傾けての怪気炎。「冬男は邪魔だ」と追い返された。朝六時に先生はけろんとした顔。「おい冬男君。今やっている文音連句の付け句が出来た。朝ご飯が済んだら付け句を下さい」と、いつの間に用意したのか句短冊をわたされた。これが、旅の間中続いた。三余時間きり寝ない。わたしは、すっかり疲労困ぱい。曾良には成れなかった。そう言えば、NHKが芭蕉「おくのほそ道」三百年に肖って、野ざらし紀行、笈(おい)の小文、鹿島(かしま)紀行、など、先生がガイド役になり一年以上かけてロケをした。同行のデレクターが五人も代わった。毎晩のお酒のお相手に睡眠不足になり、みんなダウンしてしまう始末。

   閑話休題。

 基隆に始まり、クルージングは、ダナン(ベトナム)−シンガポールーコロンボ(スリランカ)モンバサ(ケニア)−マッサワ(エリトリア)−待望のスエズ運河通過―ポートサイド(エジプト)−ピレウス(ギリシャ)−ドブロブニク(クロアチア)−ベニス(イタリア)−カサブランカ(モロッコ)−ラスパルマス(カナリア諸島)―プリッジタウン(パルバドス)―ラグアイラ(ベネゼエラ)―クリストバル(パナマ)−待望のパナマ運河を通過。アカフトラ(エルサルバドル)−アカプルコ(メキシコ)−バンクーバー(カナダ)−アラスカフィヨルドを観光。スワード(アメリカ)そして一路太平洋を渡って、六月五日に横浜港に接岸。帰国。船中で“立夏”を迎える。 飛行機では行けないところ、洋画の中に出てきた地名や主人公が思われる。
 この航海の様々な出来事の中から、世界の人々との出会い、交流など産経新聞が、活字離れしている、三十代を中心にした、洒落(しゃれ)た、上質紙のカラーページがフンダンにある[SANKEI EXPRESS] 月決め宅配、日刊「1680円」に、かつての社会部記者になって随時レポートとカラー写真を「客船トパーズ号発 宇咲冬男」で連載が決まった。このホームページの愛読者は四月から六月までSANKEI EXPRESS の購読をお願いします。産経新聞読者係り迄。

 地中海恋うや松雪草うつむき
   冬男


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 四月は華やぎの月。春の花々の饗宴(きょうえん)。八日はお釈迦さまの誕生日。花見堂は蓮華、すみれ、椿、躑躅(つつじ)、藤の花などで飾られる。誕生仏が可愛らしく銅の鉢の中に置かれ、善男善女、児童が甘茶を注ぐ。

 花祭り天界に楽放なたるる
   冬男

 この句は昨年の「俳句朝日」の四月号の、作品七句の中の一句。越村編集長が、この作品は俳句と連句で鍛えぬいた事で生まれた作品と、言いきってくれた。連句をやると俳句が駄目にはる、と言うある種の俳壇の俗説を覆したと、嬉しかった。だから七月七日に急きょ「文学の森」から文学博士取得記念出版した、第九句集「塵劫」の巻末に、“花祭り”の句を据えたのだった。

 昨年の四月二日は生涯忘れられない日となった。生家の熊谷市郊外の天台宗別格本山:常光院の境内に「国際俳句・連句碑」並びに、土屋文明の高弟で、歌人、郷土史家、社会事業家だった母てい女の“鏡”と題した喜寿の時の短歌「鏡見つこころ繕う人あらばいかに鏡も嬉しからまし」の短冊の筆跡を再現した「歌碑」が、わたしの発願で建立、除幕された。国際俳句は、冬男の「薔薇」の句碑をドイツに建立してくれた、ドイツのバート・ナウハイム市シュタインフルトの薔薇博物館長・ザビーネ・キュープラーさんに返礼として作句して頂いた「棘の間に薔薇美しく棲む不思議」と言う薔薇の句としては、実に傑作の俳句を、碑に刻むことが出来た。俳句だけでは意味がないと、考えた。そして、芭蕉の有名な <さまざまの事おもひ出す桜かな>の句を立句にした連句「オモテ六句」をキュープラーさんの“薔薇の句”の下に刻むことを思いついた。
 脇句は<交流深む春の俳筵  冬男>と付け、第三はフランクフルト俳句協会長のエリカ・シュヴァルム女史、四句目は、日独俳句交流の翻訳者として貢献されている、シュレーダー・美枝子さん、五句目の月の座は、わたしから連句を習い、常光院に建立せれている暉峻桐雨・冬男の両吟歌仙「涅槃図やの巻き」を、スウェーデン語に完訳して、同国に連句と俳句を広めている、外交官のラーシュ・ヴァリエー氏に、挙句はドイツ俳句協会長のマルチン・ベルナー氏に付けて貰った。実に上出来な作品が、インターネットの交換で出来上がった。熊谷の石匠で、現代の名工の肩書きを持つ野口大作・孝氏の渾身の、石の造形によって、日本語、ドイツ語、スウェーデン語が、実に石にマッチして彫られた。除幕式の幕が落とされたとき、参会者から感嘆の声が揚がった。もうあれから一年、そう感慨に耽っていたら、この原稿を起こして居る時、ザビーネ・キュープラー薔薇博物館長から、メイル便が届いた。いそいそと、開封した。なんとバート・ナウハイム市長である、ベルトン・ヴィツウェル氏の署名入りの、丁寧な「国際俳句・連句碑」建立と除幕式にザビーネ館長が招かれた事の“感謝状”と昨年十二月にキュープラーさんが除幕式、富士山五合目まで行ったレポートが写真入りで、同市の市報の特集号のコピーも同封されていた。

一年懸かりの執筆であった。

 常光院には、俳句愛好者ばかりか、国際俳句・連句碑を見に訪れる人が目立つ。

 梅が香やはや一年の母の歌碑
   冬男
 国際碑寺苑の春に耀がよえり
   冬男

 五月六日の立夏は、まだトパーズ号でパナマ運河をクルージング中。常光院の投句箱開きは、初めて、「あした」幹部の白根順子さんに託した。