■ 宇咲冬男の歳時記 《夏》

 夏立つやラテンのリズム身をめぐり
   冬男

  2007年の夏は5月6日に立った。わたしは“歳時記<春>の稿でトパーズ号に乗り世界一周の旅へ発つと書いた。寄港地の名前も統べてお知らせした。5月4日がパナマ運河を通過する事になっている。”歳時記“の文を綴ることは不可能。一足先に、明日交流会で、寄港するラグアイラ(べネゼエラ)の村人の交流会を前に、衛星回線の電波で、HPの管理者へ送稿することにした。船に設置してあるパソコンは5台。30分で五百円、担当者にアクセスするだけで、消える。一回で2、3千円が消えてしまう。
  気象の状態で、一枚の大きな写真を送るのに50分もかかったことがある。若い人は、寄港地の自由行動を利用して、ネット喫茶かホテルの施設を借りて日本に連絡している。まだ、連載が決まった「SANKEI EXPRESS」の<宇咲冬男のうみのひろみち紀行>の第一報が載らない。乗船してから、エッセイの内容の検討、送信の方法などの詰めがあったり、寄港地の前日は、かならず、レクチュアーがあり、さらに選んだツアーなどのプログラムの参加説明を聞かなければならない。船に乗って間もない、毎日発行の船内新聞連載のコラム欄「旅語録」と云うインタービュウ記事に、似顔絵入りで冬男が紹介されてしまった。シニアからはベレー帽の博士さん、若い人から“宇宙人の宇咲さん”などというあだ名が付いてしまった。いろんなイベントに引っぱり出されたりしてパニック。
三月十八日付インタビュー記事
三月十八日付インタビュー記事 

  船内生活のリズムを立てなおしながら、やっとエッセイの構想が立ったのが4月5日ころ。今度は、デジカメの写真の送稿試験をやった結果、基隆(キールン)からダナン(ベトナム)までの写真が小さくて新聞に掲載出来ないとの連絡。またパニック。なにしろ、今回は、<あしたの会>への連絡、息子達との家内の様子を聞くのが目的。
  乗船間際になって、トパーズ号のパソコンはウィンドウズと判明。マックの操作を色々憶えたばかり。門人のS君に通って来て貰い、ノートパソコンとデジカメまでS君に借りての特訓を受けた。しかし、キャノンの大型プリンターとノートパソコンをキャビンに備えられたデスクに設置したが、一夜づけではウインドウズのシステムは云う事を聞いてくれない。悪戦苦闘の連続。しかし、船のパソコンの前で立ち往生していたら、青年が「お手伝いします」と助け船をだしてくれた。その青年もケニアから15日間の“ランドツアー”に出かけてしまった。そのケニアの国立公園でのミニバンによる、野生の動物のカメラウッチングのツアーで、同じ車に同乗したいたD君と言う青年が、「ボクでよかったらお手伝いさせて下さい」と、云ってくれた。ホッとした。D君はシステム全て自由に操作、写真の処理、書き込みの早さに、舌を巻いた。文章は自分でワードに打ち込んでいたが、なんとしてもスピードが遅い。今度は“入力”を手伝いましょうと、T嬢が云ってくれた。俄然、原稿の執筆のスピードが上がった、編集長も原稿OKらしい。現在「エリトリア」のくだりまで10本送稿できたから、この“冬男の歳時記”がHPに載るころは、エッセイ「宇咲冬男のうみのひろみち紀行<仮題>」の掲載が始まったころと思う。船のパソコンがヤフーなので、結構「宇咲冬男ワールド」のHPやヤフーで“俳句作家、宇咲冬男が客船トパーズ号で世界一周へ”に新聞記事が転載されたのを読んだと船内で評判になった。八百人以上もいる乗船者なので“トパーズ村”と言われるくらいだから、変わった話題はすぐ、船のなかを駆け巡る。その速さは大変なもの。


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  マレーシアにある王宮の前で
マレーシアにある王宮の前 ベトナムの漁場風景
ベトナムの漁場風景 

  船の夏は、はや基隆(キールン)から始まった。ベトナム スリランカ シンガポール ケニア 迄は炎暑。
  インド洋に入ったらスコールがやってきた。大虹が立った。
  “虹の冬男”のことは、乗船者のなかに門人が居ないので誰も知らない。でも、乗船者は、洋上で見る大虹に大歓声。カメラのシャッターが一杯押された。飛魚の群れの飛翔も見事。俳句講座の、句会グループの名前も「飛魚句会」と決まった。

 赤道祭の余韻のデッキ真夜も炎ゆ
   冬男

  3月18日午後1時半にトパーズ号は赤道を越えた。船の舳先のデッキに乗船者八百余人が全員集合。記念の集合写真を撮った。汽笛が高らかに鳴らされた…そのあと、デッキから7階に戻る入口に赤い布の帯が敷かれ、ひとりづつそれを跨いだ。赤道越えの儀式は、それで終った。しかし、夜のイベントが大変だった。若い実行委員会のメンバーで赤道祭??「船上夏祭り」の企画が実行された。詳しいことは「SANKEI EXPRESS」にかいたので、書けない。しかし、盆踊りから始まって後部デッキは若い女性の浴衣姿で埋まった。乗船のときに、ほとんどの若い女性が浴衣を持ってきた。地元のお祭りに使った団扇も持っていた。浴衣は、いまや、若い女性達のファッションになったのだ。船内の売店で30着限定販売のメ竹下夢二デザインモ浴衣もすぐ完売。
  間もなく訪問するケニアとの交流のため、ケニアの踊りも練習していた。踊りは真夜中まで続いた。そのエネルギーに圧倒された…本式の男性浴衣を持ってきてよかった。
  男性では、浴衣姿はたった一人。アメリカ人やら外人女性にモデルみたいに引っ張りまわされて、カメラのシャッターを切られた。
  前方のデッキに熱を冷ましに移った。舳先は船の航行を妨げないように、灯りは消されていた。こちらのデッキもまだ暑かった。床が…
  デッキを変えたのは、赤道まで来て、まだまじまじと「南十字星」を見ていなかった。デッキが炎暑になって、体の疲労を少なくするために、自重していた。赤道のサザンクロスは、すぐに見つかると聞いていた。天を仰ぐと天の川が全天に流れ、インド洋を抱えるように照り輝いていた。こんな雄大な銀河は見たことがない。あまたの星も天を埋めて光っていた。南十字星は、天の川さへ見えれば見つかる。デッキに寝ころんだ。船橋の右端に南十字星は少し斜めに十字の形の星を輝かせていた。ニセの南十字星も近くに見えた。日本なら星の饗宴はメ秋モ。でも南半球では、赤道上が一番だ。宮沢賢治の世界に、しばし浸った。星を浴びて体が濡れそうだった。午前2時までデッキに寝ころんでいた。
赤道祭の夏祭恋の三つもの
赤道祭の夏祭 恋の三つもの       

  コロンブスなどによる、大航海時代を思った。夏祭りの果てた後方のデッキも暗くなった。後方のデッキでは舳先に対応して、“北斗七星”が輝いていた。北極星は、赤道でも揺るぎない星の王者だった。赤道では双方がよく見えるのだ。

 南十字と北斗と赤道上涼し
   冬男

  これから、炎暑のケニア。憧れのスエズ運河を渡ったら、春の寒風が吹きだした。
  ギリシャで降りる、ギリシャ出身の船長さんら一行を送る「グリーク ナイト」にでた。デッキは寒風が吹き渡っていた。たまらなくなって、キャビンに戻り、やっとの思いで探した、皮のズボンと皮のジャンパーに着替えてテーブルについた。
  日本からのFAXでも桜に春の雪が積もったと言う。地球は狂ってきてしまったか。もっとも、トパーズ号はケニアから進路を北緯にもどしたから、温度が降下したこともある。
ギリシャを過ぎるころ、若い人を中心にばたばたと風邪で寝込んだ。よくうがいをして、手洗いをすることを守っていたから、風邪は引かなかった。
  立夏の日で船上生活は70日になる。101日の世界一周だから、それから31日で横浜に帰国となる。日本は梅雨に入るころ。その間、南米の暑い国から北米のスワードの氷河で厳冬を体験する。はやく、みなの手に「SANKEI EXPRESS」のエッセイの連載が届くのを、わたしも待ち望んでいる。