■ 宇咲冬男の歳時記 《冬》
平成十八年の立冬は十一月七日だった。まだ木枯らし一号は吹かない。紅葉前線も里に降り始めたところ。稲の収穫の済んだ田んぼに、藁ボッチがぽつぽつ立っている風景が冬に入ったらしい原型。
立冬のこよみの薄さ時張れり
〈第九句集『塵刧』より〉
私は晩秋の十月二十六日に内幸町の[日本記者クラブ]で開催された東京新聞・日中文化交流協会共催の『日中文化交流新時代を築く』と題したフォーラムに招待され出席した。その興奮が未だ収まらない。中国には、俳句を通じた交流で六回程渡った。
今回は私が初めて交流をした、社会科学院の元副委員長(汝 信氏)を団長に、評論家の(白 よう氏)新進の女流作家の(鉄凝氏)の三人に、日本側から映画監督の(小栗 康平氏)早稲田大学アジア研究機構教授(青木 保氏)東京新聞論説委員の(川村 範行氏)=コーデネータ=が壇上に上った。基調講演は作家の鉄凝氏だった。鉄女史は中国作家協会副主席・『おお・香雪』という短編小説で文壇にデビュー。この作品は映画化されベルリン国際映画祭で芸術大賞を受賞。ストーリーは貧しい農村の少女・香 雪が鉄道に駅が出来、数分汽車が停まるようになり、画家と知り合う。
鉛筆と筆箱を貰う。お礼に採りたての卵をプレゼント。やがて画家は新しい鉛筆と筆箱をを窓から見せる。香 雪は窓売りの為に籠に山盛りの野菜、卵を持っていた。その籠を持って汽車に乗り込んだ。新しい鉛筆と筆箱と交換して貰うために。
汽車は発車してしまった。しかし、新しい鉛筆と筆箱は農産物と交換出来た。香雪は線路伝いに長い距離を歩き通して夜、家に帰った。汽車が停まるようになって、貧しい農村は豊かになった。─短編。
フォーラムの基調講演は、鉄女史だった。演題は[驚きこそ美なり]だった。作家の選んだ演題が、そのまま俳句のキャッチフレーズになる事に驚いた。まさに俳句そのもの。彼女は初めて来日したのが春だった。桜が満開だった。花に〈優しさ〉〈噎せるような匂い〉〈女性の芯の強さ〉を感じた。日本人が桜を愛する事が解った。桜を見ての驚きは日本人と感情を共有出来る美だった事。文学の存在は「夢を育てる」「他者を褒める」「自分の見直し」だと思う。『おお、香雪』は貧しい村の少女が汽車という文明によって受ける豊かさと、純粋と言う心の豊かさの対比を書いたもの。日本人は観光で中国を訪れるが北京や上海などの大都市よりも、古い文化や今の農村をよく見てほしい。ハイテクは人を、文明を破壊し、暴力的。しかし、それを認めながら一方で、文明と言う過去の尊い遺産にも振り向き「精神文明を育む必要がある」と。『香雪』はそんな思いで書いた。三度目の来日で超高層のホテルに泊まった。都心で、それこそ近代化のただ中。夕方に鐘の音が聞こえてきた。画家だった父が歌っていたメロディーが流れてきた。〈夕焼け小焼けで日が暮れて〉の歌詞を思い出した。古い日本の童謡です。ハイテクに囲まれた中で聞いた童謡は美しく、心を揺さぶられた。日中文化交流のこれからは、中国の或る広告のキャチフレーズの{ベストよりベター}の言葉をそのまま、当てはめたい。最後にわたしが歌い始めますが、一緒に夕焼け小焼けで日が暮れて─を歌って基調講演を終わりますと結んだ。鉄女史の声は澄んでいて美しかった。会場を埋めた聴衆二百人との静かな合唱は深い余韻を残した。
桜の花と夕焼け小焼けの歌等は、日本人が失いかけている伝統の美学。産経新聞社が今、日本の童謡の復活運動をやっている。安倍内閣は、教育制度の見直しを重要なテーマ─とした。俳句も外国人に取られてしまう危機感を持っている。私は新聞記者をやっていたお陰で、俳句も連句も季語だけでなく、森羅万象を見つめる習性が身に付いているから、良かったのだとつくづく思う。やはり俳句オンリーでは(連句をやらないと)駄目と言うことがはっきりした。
時雨月旅の余韻をまた旅へ
〈『あした』十八年十一月号より〉
九月に、駐韓スエーデン・ヴァリエー大使のご尽力で、韓国の詩人のノーベル賞候補の高銀氏らと大使館の公邸で交流会が成功した。今回はその国の俳句作者でなく、代表的色々な文学のジャンルの方々に、日本だけで、世界に無い最短詩形文学の、俳句と連句を理解して貰うこと。韓国の詩形を教えて貰うことだった。[あしたの会の作品]が韓国語に訳され、一人づつから感想を頂けた。高銀氏からは韓国の伝統的詩形の「時調・じちょう」による、即興詩を[あしたの会に]朗々と歌って頂いた。「今迄の知識では解らなかった、俳句の象徴を学んだ」と語って頂いた。そして、国花のムクゲの花や桜紅葉の百済路を巡った。
その余韻の残ったまま、十一月半ばには冬男の第一句碑『白日や』の句碑の建つ安曇野を訪ねる。五十五年に当時門弟だった木下富夫さんが、山葵田の近くに住みクリーニング店を経営していた店先の道路に面した敷地「ドライヴインを立てる計画あり」に、冬男の後援者だった日本画家の、阿部六陽画伯が当地で冬男が詠んだ〈白日や一岳韻く代田水〉の句を揮毫、富夫さんが石を寄進して除幕された。この句は句集『乾坤』に入集。表画は、インドで大山忠作画伯がスケッチした象。「画伯と句集を激賞くださった、瀬戸内寂聴尼」は十一月三日の文化の日に、奇しくも、共に文化勲章を受賞、宮中で天皇陛下から賞を賜る事が報じられ感激ひとしお。御目出度うございます。
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師走来るずしりと重く石沈み
〈第九句集『塵刧』より〉
庭の石蕗の花が黄色の火をともし始める。今年は大変な年だった。前年の暮れに、日本文化振興会から{国際芸術文化賞}を受賞。四月二日に生家の熊谷市郊外の天台宗別格本山・常光院の庭にドイツからキュープラー薔薇博物館長と、スエーデンの外交官ヴァリエー韓国大使を主賓に御招きして『国際俳句/連句オモテ六句』碑並びに、冬男の発願で土屋文明の高弟で歌人・社会事業家・郷土史研究家だった母・小久保 てい女の『鏡』と題した歌碑の建立除幕式、そして冬男の受賞祝いと、[あしたの会]による(三つの慶事)が開催された。五月には、評論集をだす予定を変更。第九句集を編む事になった。文学の森の社長の奨めだった。句集『乾坤』に対比させ、集名を『塵刧』と決めた。五月に後書きを書いていたら、かつて(仏教から芭蕉の俳諧・発句と連句の論考)の審査を申請していたニューヨーク市の「国際学士院大学」から、六月に{文学博士号}の授与の知らせが届いた。産経新聞のニューヨーク支局に大学の規模や、格付けを調べて貰った。歴史と伝統のある立派な大学。「お待ちしていますと」連絡が入った。
学位帽やっぱり夏のベレー帽
〈『あした』九月号〉
夏至の日やまざと還りし学舍の香
同
更に十月五日には、メンバーである[日本文芸家協会]が御殿場「小山町」の富士霊園に開いた〈文学者の墓苑=メモリー〉に{宇咲 冬男・句集 塵刧}と彫られた。メモリアルが朱を入れられて完成。メモリアルは墓標でなく一区画数十名の名前が連ねられて、故人・生前者のペンネームと小説や、詩の代表作の[著書のタイトルが刻まれる]わたしは、母の「歌碑」を生家に建立する事が決まった時に、文芸家協会に生前手続きで〈宇咲 冬男のメモリアル〉を刻んで頂きたいと、申し入れた。四月に歌碑が除幕されたあと、富士霊園を訪ねた。広大な霊園は、三菱地所の開発だっただけに、実に美しく、富士山が真っ正面に見える。桜並木が続き、お花見の名所。 文学者の墓苑は、霊園の中段に有って更に富士の眺望が素晴らしい。メモリアルの碑面が屏風の如く建ち並んでいた。第七期の面には、丹羽文雄・水上勉・大石静・橋爪健・北沢郁子・萩原葉子など錚々たる文学者の名前と代表作名が刻まれていた。私が割り当てられた碑面は、第八期の面で工事中だった。しかし、よく見ると第七期の面の碑の左側に空きが見つかった。協会に尋ねると、もうメモリーを刻む人が決まっていると言う。思い出すと、文学者の墓苑の協会の管理担当理事は、親しくさせて頂いている作家の伊藤桂一常任理事だった。私の句集『虹の座』の書評を寄せて下さった事や(あしたの会で)講演して頂いた。伊藤先生のご自宅に電話した。おいでだった。「冬男さんは名刹の出身」考えてみます、との返事。暫くして生前手続きの方がキャンセルになったと。伊藤常任理事のお言葉だから、今年の十月の墓前祭・生前手続きの刻字を済ませ、現地にお出で頂けるなら、ご希望に添えます=との知らせ。メモリーに刻む代表作は『塵刧』と決めた。
秋富士に抱かれ筆名碑となりぬ
〈『あした』十月号〉
十月五日は雨だった。原宿から協会が用意した大型バス三台で現地に向かった。セレモニーは、協会理事長・卒寿を前に、なおお元気な、担当理事の伊藤桂一先生が、今日納骨される作家の名前と、生前手続きを済ませ、刻字された人の名前を読み上げられた。協会から十日程前に「生前手続き者の代表として宇咲が挨拶」して欲しいと文書で依頼があった。
作家でもなく、一俳句作者の冬男がメモリアルの碑に刻字されただけで、幸運なのに。当日は百四十余人の参加者の前にテントが張られ、理事長・伊藤先生・遺族代表として萩原朔太郎氏のお孫さんで多摩美術大教授の萩原朔美・宇咲冬男・協会の司会と席が出来ていた。萩原朔美氏は「作家の萩原葉子の長男、協会員でエッセイを書いています。自分もこのメモリアルの碑に自分の名前が刻まれるよう、書きます」と挨拶された。冬男の挨拶には注文が付いていた。なぜ七期の碑面の刻字に拘ったか?だった。「メモリアルに文学者としてペンネームが刻まれるだけで感謝しなければなりません。しかし、下見に来ましたら、丹羽・水上先生等のお名前が刻まれた碑面に空きがあるのを見つけた。わたしは作家になりたかった。今でも小説を書きたい。丹羽・水上先生は共に仏門出の作家。お世話になった伊藤先生は更に、わたしと同じ三重県の天台宗の名刹のお生まれ。文筆に携わる縁と仏縁を頂きたかった。その願いが本日叶えられ本当に感謝の気持ちで一杯です。」と挨拶をした。翌日の記念講演会は先約者で一杯。参加できなかった。
昨年もそうだったが、年賀状を書くべきか、止めるかにぎりぎり迷っている。伝統の灯は消したくない。こうして、今年も暮れる。
名残空混濁の世は映らざり
〈『あした』十八年十二月号〉
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一月はお正月。三が日は東京に出て行ってしまった、二人の息子夫婦は来ない。特別養護ホームに入っている妻を大晦日に迎えに行き、三日まで身の回りの世話。
元日の夜は一灯に寄り合えり
〈句集『荒星』より〉
この元日はしきりに、芭蕉の俳諧の学問と連句=両吟歌仙=を巻いた暉峻康隆(桐雨)先生のことが思われる。最晩年に、博士論文を書くヒントを頂いたのも桐雨先生。旧産経新聞社の旧友会の講師に指名され「俳句は何故国際化したか」のテーマで話をした。一般に知られていない連句について、触れない訳にはいかない。かつて、桐雨先生の肝いりでNHKの教育テレビで「新春に連句を詠む」と題した、神奈川県の大磯の鴫立庵での四日間に亘る生放送に出演した。連句の解説役に洒脱な語り口の桐雨先生がなり、鴫立庵主の草間時彦先生が亭主。客として、冬男と評論家・『元酒編集長』の佐々木久子〈柳女〉の二人と時彦さんの三人が連衆で[年新たの巻き]の連句を付け合った。発句は客の冬男が〈沢音をこころして聴き年新た〉と鴫立庵に挨拶して始まった。半歌仙の内、時間の関係で講演にはウラ一っ句目から二句目の恋の呼び出し。恋の付け合い、恋離れ。。。。と撮って置いたビデオを放映した。記者出身の聴講者が多かったためか、目が釘付けになった。五・七・五─七・七 五・七・五 七・七──と発想が転じる連句の仕組みを、テレビで実際に見て、俳句より面白い、時間があったらみんな見せて欲しかったと、言われた。
前年の新春に次いでの連句の実作のテレビ放映は、初めてのこと。インパクトが大きかった。この鴫立庵での[今朝の春の巻き]は、桐雨・冬男共著『連句のすすめ』におさめられた。更には、長寿を全うする迄書き続けられた、俳句の季語を万葉集にまで遡って論考した、ライフワークの原稿が、門下の雲英末雄早大教授によって纏められ、東京堂出版から『暉峻康隆の季語辞典』として二千二年五月に出版された。四百字詰め原稿用紙千四十四余枚。その本が雲英教授から贈呈された。一気に読んだ。涙が止まらなかった。その[季語辞典]に、この新年の文の初めに上げた、冬男の俳句〈元日の〉句が開巻一月の…不易の句…の例句に収められていた。例句は、主に芭蕉、蕪村や一茶、七部集に載った翁の門人の句。現代俳人の句は少ない。これは、配慮。その数少ない現代俳人の例句に開巻から、冬男の句を、採用して下さった。しかも、真ん中の(夏の項)には、生家の句碑に刻まれた[行けどゆけど大虹のしたぬけきれず]の冬男の句を、虚子の[虹立ちて忽ち君の在る如し]に対比して入集。巻末の十二月の項で(年の夜)の例句として[うつくしや年暮れきりし夜の空 一茶]と並べて[星座正し思ひみだるる年の夜も 冬男]の句=角川図説大俳句歳時記入集=を引用して掲載。なんと、冬男の俳句は他にも入っているが、開巻、半ば、巻末の押さえに冬男の俳句を取り込んで下さった。その上、常光院での、先生の[涅槃図や]の句の出来たエピソード、出水の帰る鶴を見に行った事、中国の旅での李芒老師との出会い。句のやりとりなどの、季語の句の生まれた舞台裏も明かしている。
生前は、冬男が病気して作品がスランプになると、電話の向こうや、連衆の居る前でも“冬男しっかりしろ”と怒鳴られた。しかし、こと連句の両吟では、二人は最後まで一緒。冒険しながら楽しんだ。最近、歌仙を春・夏・秋・冬と順行式で巻く試みの文韻が、途中まで見つかった。〈炭俵〉調でと[しらす干はめば古さと波の音 桐雨]と言う立て句で始まった。平成九年二月初旬開巻─と葉書にしたためられている。その内、発表しようと思う。先生が、故郷の志布志湾の波音を思って作られたことは、いま考えると、真宗の名刹の長男に生まれ、後を継ぐはずを、作家になりたくて、親に黙って早稲田の文学部を受験したことが、気がかりだったのだ。事実、先生は四季おりおり、生家の寺に原稿料を寄進していた。同じ寺を飛び出した自分に思いが重なるが、寺に寄進無し。でも文化を残した。
塵刧や限り知らざる冬泉
〈第九句集『塵刧』より〉
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二月。如月と言い、早緑月とも。札幌の〈雪祭り〉 秋田の〈かまくら〉は冬の名残。
三尺の童となりぬかまくらや
〈『あした季寄せ』より〉
二月の四日は、もう立春。