■ 冬男の歳時記 《春》

 二○○六年の春は二月四日に立った。その前日は生家の常光院の節分会に臨み「節分句会」を開き、節分の護摩の焚かれた「立春大吉」の門に貼るお礼と福豆を住職から頂き、檀徒と句会に参加した連衆とで豆を撒いた。節分は晴れていて、朝のうちは少し寒かった。
 立春の日も晴れていて寒の名残りはあったが、木々の枝がしなやかに見えた。
 今年の立春は近年にない深い感慨を抱いて迎えた。平成十五年九月二十七日、あしたの会創立三十五周年の祝賀パーティーが、東京・品川のホテルラフォーレ東京で催された。 その日、私は主宰の挨拶の登壇の際、首から大きな母の遺影を掛けた。 会場は一時しぃーんとした。私は語り出した。「あした」の主宰を三十五年間も続けて来たが「あした」誕生の源流は、生家の常光院。母が太平洋戦争の敗戦で茫然としていた十代後半の男女を集めて「これからの日本を背負うのは、あなた達。日本の伝統文化を亡ぼしてはいけません」と寺を解放し、活け花、茶道、百人一首、古典の朗読会などを催してくれた。講師には山口平八文芸評論家、韮塚二三三郎県立図書館長兼郷土史家、そして、埼玉大学へ出向き俳諧を教えていた草茎社主宰の宇田零雨先生なども招いていただいた。この勉強会から、創刊以来「あした」の編集長を勤めてくれている角田双柿さんを会長にして「若菜会」が誕生した。 若菜会は、母が注文して作ってくれた卓球台でピンポンをし、社交ダンスのステップも習ったし、名曲鑑賞もやった。俳句会が加わった。この句会の誕生で若菜会のメンバーの心がひとつに溶け合った。こんなことを、かいつまんで話した。双柿編集長が、その若菜会のことをもっと詳しくスピーチした。
 それから三年、今年の二月で「あした」は何と“四百五十号”の誌齢を刻んだ。 戦後誕生した俳誌の中でも、この記録は希有なこと。他の結社では盛大な祝賀会を催したろう。「あした」は、六月の年度大会をもって四百五十号記念祝賀を兼ねることにした。それが、思いもかけぬ慶事が昨年相継いで起こり、今年のお正月まで続いた。

 春や立つ歌碑・俳句・連句碑の建つや
   冬  男
 春立つや歌会始めの歌集現る
    〃

と立春に詠んだ。
 今年の一月十日が母の二十七回忌に当たる。年回供養は繰り上げて昨年に行われたが、私は「母の歌碑」は平成八年の二十七回忌に建てようと発願した。昨年五月、初の全欧州俳句会議に日本で唯ひとり主賓として、ドイツのバート・ナウハイム市から(薔薇の句碑の建つところ)招待された。 あしたの幹部は、この渡欧に大反対だった。前年の十六年は一年のうち通算七か月も肺炎や腸閉塞で入退院を繰り返して体力が落ちていた。しかし、医師に同行して貰っても出席する返事を送った。
 四月に、野口大作石匠を訪ね「私がドイツの旅先で死んでも母の歌碑は建てて頂きたい」と歌碑建立費を全額収めて旅立ちを決めた。後で主宰を独りでドイツへ渡らせなられない―と、二十余名で「ドイツ・スイスの旅」のツアーが組まれた。初の全欧州俳句会議は大成功だった。私の主張してきた「俳句も連句も座の文学、語り合いの中から作品は生まれる―」ということをヨーロッパ各国の俳句協会の俳人達は認識してくれた。
 七月にはなんと産経新聞社を十年で円満退社した冬男の本名小久保誠が「日本記者クラブ特別会員」に推挙されたのだった。文学を志して社会部記者を辞したのに、東京・内幸町にある日本プレスセンター内の「日本記者クラブ」が自由に使えることになった。大変なステータスで、産経新聞の石井英夫コラムニストの恩恵でもあった。
 十月下旬ごろには東京銀座に在る「日本文化振興会」から、同会の最高の賞である『国際芸術文化賞』の受賞の打診があった。三年前に「そのウツワではありません」と辞退した。私の母もすべての賞を断った。俳句の師の宇田零雨、更には暉峻康隆先生も官の賞は全部辞退していたいきさつがあった。しかし、今度はその申し出を受けざるを得ない―と思った。この賞は私ひとりだけの賞でなく「あしたの連衆」の方々の賞だと納得した。この受賞の反響は大きかった。詩人の白石かずこさんからは、ランの花をデザインした焼物のついた祝電、富士真奈美さんからは四万十川で育った大きな房をつけた白百合の花束の大きな包みが届いた。一月二十日ごろには、総合俳誌『俳句界』と『俳句四季』に受賞式の写真付きで大きなトピックスとして俳壇にも伝わり、黛まどかさんから長文の手紙と共に「めぐりあひ」と題した特注酒が届いた。― 春一番の私・まどかの詩 ― 春風のようなお酒 ― そして〈春一番あしたの私連れてくる まどか〉という、句集「花ごろも」より抽いた句も桜の花びらをあしらったラベルに刷り込まれていた。今になっても句縁のある俳人や詩人、作家などから祝い状が届く。書き忘れたが、受賞式は十七年十二月四日、皇居のほとりのパレスホテルのダイヤモンドの間であった。翌五日は七十四歳の誕生日でもあった。
 帰宅してすぐ、野口大作石匠に受賞したのも母のお蔭「桜の花が常光院に咲くころの四月二日(日)までに歌碑建立をしてください」―とお願いした。数日して大作石匠から電話が来た。「ドイツの句碑が、俳句ばかりでなく“石の造型者”まで称えられていることを、私とドイツへ同行した長男孝石匠と絹子夫妻から聞いた。キュープラー薔薇博物館長の俳句碑を常光院へ建て、返礼としたい」との申し出だった。キュープラー館長は俳句はエリカ・シュヴァルム、フランクフルト俳句協会長と親しいから、心得はあるだろう。しかし、私の「薔薇は実に」の句を句碑建立の句として推薦してくれたエリカさんやドイツ語に名訳していただいたシュレーダー美枝子さん達にどう報いたらいいか―考えあぐねた。十月の始め、書斎をかたずけていた時、ハッと閃いた。連句形式の中に「オモテ六句」というのがある。芭蕉の俳句を立句にし、脇が冬男、第三がエリカ・シュヴァルム、四句目はシュレーダー美枝子、そしてオモテ六句の「月の座」は賓客として、暉峻康隆(桐雨)先生との両吟歌仙を、スウェーデン語に完訳された上、冬男の創設した「十八韻順候式雪月花」の構成表までストックフォルムの詩の雑誌に掲載、連句を広めてくれている同国の外交官のラーシュ・ヴァリエーさんに付けて頂き、挙句は全欧州俳句会議の主催者、ドイツ俳句協会のベルナー会長に―という構成が決まり、早速、キュープラーさんには石匠の意図を告げ俳句を十五句ぐらい作り、美枝子さんに日本語に訳してもらうことでOKが取れた。喜びのメールが届いた。オモテ六句では五句目に「月の座・秋」は在っても「花の座」はない。花を入れたい―と思案したら、冬男の『ヨーロッパ紀行』の十五年間の足跡に思いが到り、芭蕉が晩年、故郷の伊賀へ帰郷し、桜の木の下で門人達と主君蝉吟を偲ぶ会で作った〈さまざまの事おもひ出す桜かな〉の句が浮かんだ。この案を双柿編集長に相談したら『冬男らしいすごい事。立句に芭蕉の桜の句、脇冬男、ヴァリエーさんに月の座、そしてキュープラーさんの俳句と来たら〈国際的俳句・連句碑〉が母の歌碑と共に残るだけでなく、日本の短詩型文学「連句」「短歌」「俳句」碑が常光院に全部揃う』―と共鳴された。


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 三月は三月三日を「上巳・じょうし」と定められている。古代中国では三月上旬の巳の日としたが、三世紀ごろ三日と定めて、その日を節日とした。日本では「雛祭」に代表される月であって、卒業、入社試験の月でもある。かつては

 三月や夜がふくらみはじめたり
   冬  男

と詠んだ。母は寺にあった大涅槃図を、東京・上野の国立博物館の特別技官の経師屋さんに修復を依頼、国宝指定を願い出た。国宝指定にはならなかったが、県の文化財となった。三月十五日には涅槃会が修される。本堂の天井から廊下まで届く大涅槃図が、この日だけ公開さる。最近は、俳句結社の人達が拝観に訪れ、句会などが開かれる。常光院に建てられた桐雨・冬男両吟歌仙碑は、真宗の寺の生まれの桐雨先生は、あまり拝見したことのなかった常光院の涅槃図を披露されて感動。〈涅槃図やあの世を知らぬけもの哭く 桐雨〉という、涅槃図の絶品を立句にしたもの。
 ところで、国際連句碑のことに戻る。この「オモテ六句」の連句をキュープラーさんの句碑と同じに野口石匠に彫んでもらうプランに一番感激されたのはエリカ・シュヴァルムさんだった。連句も好きになっていた。ところが、美枝子さんから十二月はじめころ「エリカさんは骨髄がんと診断された。気丈なエリカさんはフランクフルトの独日協会のパーティーで生け花のデモンストレーションをやった」とメールが来た。私は不思議と縁の深い方の死の予知が当たるのだ。「あした」創刊の資金を作ってくれた阿部六陽画伯、そして朝子夫人、門人の数人の死の予感は的中してしまった。エリカさんには早く「第三を付けて貰わねば」と脇の〈交流深む春の俳筵〉冬男―の句を美枝子さんに送信した。エリカさんからは一週間も経たぬうち五句の付句がメールで届いた。ほとんど原作どおりの付句〈お茶室に招かれ聴くは初音にて〉という句を治定した。エリカさんは大変喜んだという。私は忘れていたが、兜太・冬男の句碑、と連句碑の除幕式に、たまたま草月流の会で来日中のエリカさんがかけつけてくれ、常光院のお茶室で接待を受けた挨拶句だった―「あのお茶室の名は」と追っかけて質問が届いた。固有名詞は入れられないから原句のままがよい―と返信した。その頃、キュープラー薔薇博物館長は趣味のうちのひとつではあったが、「薔薇の句」が日本で句碑になることが決まってから、重圧がかかり、頭の中が真っ白になったと美枝子さんに訴えていた。家で療養していたエリカさんの元へ十二月十六日の夜、美枝子さんがたずねていたところへ、エリカさんが「何をしてんの、連句マイスター冬男が困ってるよ。早く十五句を私に見せなさい」とハッパをかけられたキュープラーさんから十五句の「薔薇の句」が届いた。エリカさんが十五句を読んで「キュープラーはよく頑張った。みんなマイスター冬男の選にパスする句。私安心した」と、キュープラーさんへエリカさんが電話したという。そして、その五時間後―すなわち十二月十七日午前二時にエリカさんは急逝してしまった。
 エリカさんが太鼓判を押したように、薔薇を愛しながら、石で博士になったキュープラーさんらしい句がずらしと並んで届いた。その中から碑に彫む句を〈棘の間に薔薇麗しく住む不思議〉という作品に決定。しかし、あとで「住む」でなく「棲む」にしたい―と私がメールしたら、なんと三日くらいで「棲む」の方のドイツ語の改作句が届いた。キュープラーさんは「住む」は人間。「棲む」は人間以外の生物に用いる違いを納得したのだった。
 こうして、キュープラーさんの句と連句「オモテ六句」冬男捌き、美枝子訳の原稿と書体を野口石匠の元へ届けることが出来たのだ。句/連句碑には満尾の日付を「二○○六年三月三日雛の日に満尾」と彫んでもらうことにした。
 エリカさんの葬儀には、追悼文のあとに〈生け花の聖夜を待たず散りしとは 冬男〉という悼句を贈った。美枝子さんが独訳して追悼文を読み上げたところ、俳句のところの朗読になったとたん、三百人の会葬者の感動がさざ波のように広がった―とは、美枝子さんからのメール。「聖夜」という季語が“生け花”と相まって俳句を知らない会葬者にも感銘を与えることが出来た。
 さかのぼって二月七日、母が喜寿の祝いに短冊にしたため一族に配った「鏡」と題した〈影見つつこころ繕う人あらばいかに鏡も嬉しからまし〉の真筆の拡大と大きな歌碑への字の配置、歌碑のウラの冬男の撰文と母の経歴も彫られる事が決まった。
 折から、母が昭和九年に常光院の前身の武蔵の国司として常光公が着任し中条氏を名乗り「中条判官常光公」となり穀倉を治めていた。その常光公八百年を記念した「宮中御歌会仰景会」=歌会始の再現=を催した記録が、熊谷の同人設楽千恵子・吉村美波の二人により、たかえさんの代わりに熊谷図書館で発見してくれた(たかえさんのご主人が心筋梗塞で重病)ので、歌碑建立の新資料として残すことになった。

 沈丁や万葉仮名の芳しき
   冬  男


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 四月は「花見月」「桜月」「花咲月」「春惜月(はるおしみづき)」「夢見月」といった「弥生」に対する美しい季語が並ぶ。
 そして、史跡常光院の“館跡の俤”を残す城濠の上に植えられている桜が咲くであろう四月二日に、ドイツのバート・ナウハイム市のシュタインフルト薔薇博物館ザビーネ・キュープラー館長の薔薇の句
   棘の間に薔薇麗しく棲む不思議
と、同作者に国際連句、オモテ六句「桜かな」の巻き―冬男捌き、シュレーダー美枝子訳が彫まれた国際的な俳句/連句碑。

   さまざまな事おもひだす桜かな   芭 蕉
    交流深む春の俳筵        冬 男
   お茶室に招かれ初音聴きもして   エリカ
    皇居の橋を渡り来る馬車     美枝子
   月光のお濠の水に耀ける      ヴァリエー
    葡萄摘み終え感謝ひとしお    ベルナー

の二基の除幕式と冬男の「国際芸術文化賞」の受賞祝賀と三つの慶事が常光院で催されることが決まった。当日はキュープラー館長、在駐韓国スウェーデン大使ラーシュ・ヴァリエー両主賓、シュレーダー美枝子さんが揃う。
 今年は二月に大寒波が来て、二月六日には関東地方にも雪が降った。常光院の桜が、芭蕉の桜の句のように咲いてくれることを祈っている。四月は入学式や入社式に始まって“花の宴”で終わる。四月も終わりごろになると「桜蘂」が散り敷く。そして“立夏”を迎えると関西から関東まで、花の名所は「葉桜」となる。

 松蝉の鳴く間の深し弥陀仰ぐ
    冬  男
 桜蕊つなぎとめても桜蕊
     〃


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 今年の立夏は五月六日。

 葉桜やきのうは奥の旅にいし
    冬  男