■ 宇咲冬男の歳時記 《夏》
花は葉に歌俳連句碑照り初めぬ
冬 男
十八年の立夏は五月六日だった。 四月二日には生家の熊谷市・天台宗別格本山常光院の境内に冬男発願の、母小久保てい女の「鏡」と題する歌碑と『国際俳句/連句碑』が建立、除幕された。
母の歌碑の建立の事は「あしたの会」創立三十五周年の祝宴の折りに、願いを込めて参会者には、お礼の挨拶の中で主旨を伝えた。昨年の五月に、冬男の句碑の建つドイツのバート・ナウハイム市がホストになり、初の全欧州俳句会議開催が決定。日本でただひとり、主賓として招かれた。前の年、わたしは一年を通じて七ヶ月も入院生活を送った。「あしたの会」の幹部は渡欧に大反対だった。
癌で遷化した兄の康田大僧正は、枕辺に侍った時、今際の言葉の一つとして「お前の;薔薇の句碑建立除幕式;に渡欧して導師が勤められなくなった。お前は病弱だが、今回の恩は忘れるな。今後も招かれたら、途中で命を落としてもドイツに行くこと。僧籍に在った身だ」と告げられた。その言葉が焼き付いていて、ひとりでも招待を受ける事にして、ローデ市長に出席の返事を送った。
合わせて、兄の親友の野口大作石匠に「旅先 で何か起こったら母の歌碑を建立して頂きたい」と、母が喜寿の祝いに短冊にしたためて残してくれた「鏡」〈影見つつこころ繕う人あらばいかに鏡も嬉しからまし〉の短冊の直筆と建立費を託して旅立った。幸い、医科歯科大でお世話になった大和田ドクターが同行してくれ、俳句会議は成功した。
無事帰国し、野口石匠に「命を授かった。来年は歌碑を建立したい。母の廿七回忌になるので」とお願いした。その年の十一月頃だった。野口石匠に「合いたい」と呼ばれた。前立腺がんと言われた。手術は断わった。母堂は常光院の中興の祖。郷土史家で社会事業の功績者の上に土屋文明の歌人と知った。来年の早々に建立したい。ついては、ことのついでとは失礼だが。わたしに“薔薇の句碑”の建立を任せてくれた、ザビーネ薔薇博物館長の句碑を、答礼として常光院に建てたい。費用は成り行きと言う。思いもしなかった事。わたしは考えた。わたしの「薔薇の句碑」建立にはフランクフルト俳句サークルのエリカ・シュヴァルム会長らの功績も残したい、と思った。閃いたのは、芭蕉の俳句を立句にした、短い連句形式のオモテ六句をメールでやり取りして巻き上げること。俳句と連句と同じ碑面に刻んだ「国際俳句/連句碑」は日本初。わたしの句業の中の連句の復興の発信にもなると、決めた。立句は〈さまざまな事おもひ出す桜かな 芭蕉〉で、脇句は冬男、第三はエリカ、四句目は、日独俳句交流の功労者のシュレーダー美枝子、五句目の“月の座”の付けは、暉峻康隆/冬男の両吟歌仙『涅槃図や』の巻きをスウェーデン語に完訳してくれたスウェーデンの外交官で俳句、連句の深い理解者のラーシュ・ヴァリエ氏、挙げ句はマルチン・ドイツ俳句協会長と決まった。作品は冬男捌きで完成。
三月の二十日、二基の文学碑が建った。二ヶ月間のうち碑の造型に何度立ち会ったか。彫る文字がド イツ語、スウェーデン語、碑の裏のわたしの建立の由来の撰文の白根順子さんの英訳の文字は小さかった。表の俳句/連句の日本語訳の書き込みは、大作石匠の子息の現代の名工で書家の野口孝氏が、工場の庭にテントをはり、暖房を入れ、真夜中までの作業だった。何度も製作に立ち会ったが、除幕された瞬間の根府川石の形と言い、俳句/連句の刻字の妙、美しさに絶句した。裏面の細い英語を石に彫り込んだ。そのたくみの技に感動した。
この二基の碑の建立は、新聞で大きく報道されたため、俳句関係者のみならず好事家が毎日のように、常光院を訪れている。春から立夏にかけて、今年は週ごとに寒暖の差が激しかった。立夏を迎えた常光院のふるさとの森は、すっかり新緑。母の歌碑の近くの大きな朴の樹には、ことのほか大きな真っ白い花が咲き始めた。国際俳句/連句碑は、父権大僧正がいとしんだ梅林のなかに、異彩を放って寺苑に馴染んできた。しかし、野口大作現代の名工の話しでは、根府川石の碑の美しさはこれから十年以上の歳月を経ないと滲み出ないと言う。今度ほど、石に芸術的な造型美を与えるのに、いかに石匠が永い歳月をかけ、あらゆる、記念碑、文学碑を刻む技を極め、入魂の思いを貫いて来たかが解った。頭を垂れるしか無い。
ザビーネ薔薇博物館長の来日は、初めての事。京都を見学すると、知らせて来た。わたしは是非、句碑の建つ常光院の大本山の「延暦寺」をお参りして来て欲しいと、宿に連絡を入れた。まっ先に比叡山に行ってくれた。残雪が深かったが荘厳だったと。句碑の除幕式も無事に済み、快晴の富士山にも案内出来た。五日からの自由時間に、おりから上野の国立博物館では、最澄が天台宗を開宗して千二百年「最澄と天台宗の国宝、重文展」が開かれていた。ザビーネさんに見学を勧めた。
わたしも拝観した。 おおきな仏縁を感じざるを得なかった。考えてみると、昨年の五月は、ドイツの全欧州俳句会議に出席。そのあと、あしたの会の連衆と、ミユンヘンで落ち合い、念願ののスイスのマッターホルンの巨峰を目前にできた。ツエルマット、ジュネーブの美しい町並み。レマン湖の紺碧の水。彼方にはモンブランもくっきりと遠望できた。ジュネーブの公園の大きく燃えるような石南花に目を奪われた。ミユンヘンのイングリッシュガーデンで、大和田ドクターと三枝正子さんと馬車に乗り、若葉でムンムンする森の深さなど、五月を満喫した。此の旅で命が蘇ったのだと、ことしの立夏を迎えてつくづく思う。
蒼天の壊れそうなり麦の秋
冬 男
こんな句が出来たのも、昨年のドイツ、スイスの五月の旅の思い出の反転。
そういえば五月二十八日は、師・零雨の師事した藤井乙男(紫影)の忌日。
俳壇では紫影の俳諧研究の業績、子規との交流などはほとんど取り上げられなかった。零雨もそうだった。ところが、三省堂から出た『現代俳句大事典』に冬男がスペースを三倍にして貰って紫影と零雨について書いたほか、俳句の総合誌で二人のことが活字になるようになった。嬉しいこと。山本健吉氏が師に助けられた事など。
紫影忌や紫影・零雨の世に光り
冬 男
とも詠んだ。藤井紫影には『風俗文選通釈』など俳文学の著書があまたある。連句・俳句の実作も無論。
ホトトギスに対抗して俳諧誌の発行を零雨に託した。句歌集に『かきね草』が残る。零雨は『古版俳諧七部集』を幸田露伴と共著。伊藤松雨とも共著がある。自らの著書も多数。『作者別七部集』などは師ならではの著書だ。今写生俳句から抒情、心象への作風が取りざたされる様になった。
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六月は夏半ば。梅雨入りとなる。
小満や口に広がる薄荷菓子
冬 男
清新な五月から蒸し暑さがやってくる。地球温暖化を防ぐ為に、昨年から国会や官庁、大きな会社でノーネクタイOK。冷房温度を下げ過ぎないなど、環境省でクールビズという夏のファッションを唱え実践され始めた。ネクタイ嫌いの冬男にはありがたい夏のファッションの変革。
自宅の小庭の杏の実が付くのを書斎の窓から眺めるのが、梅の実の熟れる頃の楽しみ。でもすっかり老木となって、年ごとに花の数が減っている。だから今年はせいぜい大びんにジャムが作れる位きり稔りは少ないだろう。枇杷と槐の樹は茂りが濃くなるばかり。持て余すようになってきた。特別大きな玻璃窓の書斎の景も変わってくる。軒に燕の姿が消えた。烏に壊されたままの巣を落としかねている。小鳥の影や声、糞も庭では気配が薄くなった。
農夫にも伏兵がいし根切り虫
冬 男
ひとり暮らしだから、おかず作りくらいするわたしに、手遊びに農業を営む門人が、時たま新鮮な野菜などを届けてくれる。無農薬での畑仕事。螢はまだ戻って来ないが、虫達は増えていると言う。草取りが大変になって来る季節。家の周りもすぐ雑草が生えて来る。坪庭の十薬や雪の下の白い花は、梅雨の暗さを少し救ってくれる。
六月の目を慰めてくれるのは、広い田に一杯植えられた早苗の緑。梅雨の晴れ間の空の紺に映えて、渡って来る風もみどりに染まって……
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七月は〈水無月〉〈鳴神月〉〈常夏月〉ともいって炎暑の最中になる。夕立ちも少なくなったが、暑さは酷くなるばかり。冷房を控えて、町でも‘打ち水運動’をはじめたところがある。昔の人の生活の智恵が活かされてきた。風鈴、簾もベランダに戻ってきた。お祭りだけに女性が来ていた浴衣も、お台場の若い女性のフアッションになった。着こなしも上手くなった。下駄もカラフルになり、なかなかの履きこなし。これらの季語は、死にかかっていた。六月から七月にかけ‘黴’も生えるようになった。これには、手ごろな‘住まいの湿気とり’が売られるようになった。小さな命の生命力の強さ。
炎天を行く誰からもしばられず
冬 男
この夏はわたしに取って[冬男]は[夏男]になった……。と、今は亡ききヴァチカン大使で冬男の文学活動の理解者だった荒木忠夫が言った通りになりそうな予感がしてならない。「国際芸術文化賞」と生家の寺に建立、除幕した母の「鏡」の歌碑、さらに日・独・瑞の「国際俳句/連句碑」の建立の反響が少しずつうねりになって押し寄せている。関連して『俳句朝日』五月号で越村編集長が「宇咲冬男の俳句は 俳句と連句で鍛え抜いた結果、国内より海外で作品の評価が高まっている』と言い切ってくれた。産経新聞の名コラムニスト、石井英夫氏は四月四日の全国版の『蛙の遠めがね』に冬男の今回の「国際俳句/連句碑」は言葉の壁を破って冬男の主張である[座の文学]としての短詩形文学を海外に認めさせたと、書いてくれた。しかも、冬男が元産経新聞社会部記者だったことまで明かされてしまった。
追い掛けるように総合俳誌『俳句界』の巻頭カラーグラビアページで・俳句界NOW [人に俳句あり]で宇咲冬男が特集された。
『あした誌』は今年二月号で四百五十号 七月で四百五十五号になる。
永い道程だったが、俳壇では認め難い連句を俳句と同格で創作し続けた結果、蕪村が‘蕉風に帰れ’と言い切って以来、蕉風の復活が出来たと思う。予定では七月の末に第九句集『塵劫』を五百部限定で〈文学の森〉から上梓する事になった。 心象/象徴と言う志向の作品が中心となる。第四句集『乾坤』と対をなす集名である。
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九月八日には八月の残暑に耐えて立秋を迎える。