■ 宇咲冬男の歳時記 《秋》
また醒めて秋暁の星負わんとす
冬 男
十八年の立秋は八月八日だった。梅雨明けが遅れただけ、残暑は“夏”そのものになる。
四月二日の生家の寺に「国際俳句/連句碑」と母てい女の「鏡」の歌碑を除幕することができた。俳句の総合誌「俳句界」の山口亜希子編集長から電話があり、「五月号の巻頭カラーグラビア頁─俳句界NOW 人に俳句あり」に登場して欲しいから肖像写真を撮るため場所を選んで欲しい─」と突然依頼があった。三十二階のビルとなった、かつての職場の産経新聞ビル前にしようか、内幸町の日本記者クラブのロビーにしようか迷ったが、やはり生家の寺を選んだ。カメラマンの橋本照嵩さんが、一度来たことのある常光院のロケーションを気に入ってくれ、山口編集長と共に、何と四時間もかけてシャッターを押し続けてくれた。
その時ふっと、文學の森から本を出そう─と思った。句集は八冊も出したから、書きためた俳句エッセイか、心象・象徴詩への俳句の志向の評論集を出したいと思った。どのテーマか迷っているうち、気が変わった。句集『虹の座』上梓から五年。ようやく冬男の主張する心象・象徴句が認められ出し、総合誌から作品の依頼が増え、反響もそれなりに大きくなった。“連句の冬男”のレッテルをはがし、俳句作家冬男を、句集で先ず世に問うてみようと考えを変えた。
冒頭に掲げた句は「あした」創刊二十五周年の感慨を込めた中の一句である。二ヶ月で三千九百句の中から抒情から心象・象徴句に至る作品を三百九十八句に絞り込んだ。その「あとがき」を書いている最中、ニューヨーク市の「国際学士院大学」から文学博士の授与の内定通知が来た。二千二年から四年に亘って送り続けてきた審査対象の論文〈芭蕉の仏教からの考察〉や芭蕉連句の現代への展開などが認められたものだった。実際学位取得など思いも及ばないことだった。俳諧には肩書きは要らないのだが、母校の大正大学オープンカレッジの講義録が起点となって学位取得の申請となった。
このことを文學の森出版部や「俳句界」の山口編集長に伝えると「学位取得記念出版にしましょう」と上梓を急いでくれた。書名は印度旅吟を中心にまとめた『乾坤』に対比するものと考え『塵劫』とした。この仏教用語を用いた句はかつてなかった。あまた出された句集名にもない。そして創作したのが、
塵劫や限り知らざる冬泉
冬 男
だった。今、この一文を書いている机上に、出来上がり見本の一本が載っている。〈秋暁の星〉を負った句集になったと思う。書名について書くのは蛇足だと思う。限定五百部出版とした。
どの星と語らん秋の立ちにけり
冬 男
東京などは新暦の七月七日を七夕にしてしまった。梅雨の最中で天の川は見えようはずはない。まして彦星や織姫は。八月の立秋となると熱帯夜はあるが空は夜ごとに澄む。銀河も星座も輝きを増す。小学校の五・六年の担任の青年教師は、夏休みの夜、校庭に二クラスの生徒を集めて“星を見る会”をやってくれた。北斗七星から始まり、一等星、二等星の星の名や星座の名を話してくれた。 遣唐使船も、マルコ・ポーロなどの大航海をした人達は、みな天体の星から船の位置を決めたことなど、田舎の学校だったから星が手に取るように見えた。流星が燃え尽きようとする時の音が、かすかに“シュッ”と聞こえた。忘れられない夏休みの課外授業だった。プラネタリウムもない時代。さしずめ孫悟空が宇宙飛行士であった。
旧盆が過ぎると竹林をさわがせる風音も虫の声も回を追って高まってくる。
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大地の気身に凝り初むる白露かな
冬 男
秋は旧暦の七夕のお星さまに始まり、中秋の名月で空のロマンは高まる。中秋の名月は新暦では九月、旧暦では十月になる。
白露は二十四節気の一つ。陽暦の九月八日頃。秋気がようやく加わる時節。夜の野路や庭を歩くと露けさを憶える。子供の頃の秋というと台風の襲来であった。虫の声や露や微妙な風音に思いの及ぶようになったのは思春期。古典の世界から少しずつ、肌に、こころに秋思が感じられるようになった。はっきり「秋思」を憶えたのは十五歳ごろだったろううか。父と死別して五年目。敗戦の年の秋だった。二・三年前に千葉県の保田海水浴場で何気なく拾った紅色の貝を机の引き出しにしまったまま忘れていた。終戦まで母方の四家族、義兄の復員を子供と共に待っていた姉など、寺には合わせて十六人もが集団生活をしていた。食糧難だったが親族同士だから明るく賑やかに暮らしていた。それも、十月になると、みな東京へ帰っていった。学徒出陣の兄が帰ってきたが急に寺は、元の静けさに戻った。勉強部屋を移して貰った。机の中を整理していたら保田海岸の紅の貝殻が出てきた。もう、しばらくは海どころではない暮らしとなることが判っていた。ふいに保田の海の賑わいと、東京へ帰った従姉たちのことを思った。十月二十二日は父の命日でもあった。紅の貝殻にはじめて“秋思”が湧いた。
落とし水時の落差を流れゆく
冬 男
穂ばらみ期になって、田の中に張られていた水を、小川に落とす時が来る。五月に張られた水。四ヶ月で他の水に混じって海へ帰ってゆく。稔ろうとしている稲に、稲を育てた田水が落とされる。たかが水─と思えないさびしさがある。
世阿弥忌や花伝と比ぶ三冊子
冬 男
忌日は陰暦八月八日。能作者で観世流二世太夫。「風姿花伝」書を著した。能の修行、演出等の奥義をつたえたもの。私は能にうとい。「梨の芯の会」結成に参加してくれた随筆家でもあった岡村米子は謡曲をやっていた。謡と冬男の俳句を結びつけた「謡いの四季」の連載で能についていささか学んだ。これに対し、蕉門十哲の一人の服部土芳が、「しろそうし」「あかそうし」「わすれ水」という翁の門人に語った俳諧論をまとめ、あとで三部作は一括され『三冊子』と名付けられた。翁晩年の不易流行論までの俳諧理念がまとめられている。「土芳忌」に三冊子の句はいただけない。三冊子は世阿弥直筆の能の奥義書と違い士芳がまとめたものだが、「俳諧の家伝書」とも云うべきものと、しみじみ思う。
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十月は秋の華。
いのち無限なりしと雀蛤に
冬 男
「雀蛤になる」という季語は、七十二候の一つ。陰暦九月節の第二候。陽暦で十月初旬。晩秋の季語。仏教では生あるものは必ず亡びる。しかし「輪廻転生」とも云う。亡びた命やものは、また何かに生まれ変わる。雀も蛤になって転生する─と俳諧と仏教が結びついた季語。十月は蒼天。秋の真っ盛り。スポーツの秋、豊年祭り、紅葉狩りなどなど、すべて活動的。花野、秋草の花々が咲き競う。
どこの寺も紅葉かつ散り僧に遭はず
冬 男
この句は昭和四十三年十月に「梨の芯の会」が結成され、二度目の秋の京都の吟行の折の作品。秋日和にめぐまれ、詩仙堂、三千院、曼珠院、蕪村の芭蕉に帰れと俳壇に呼びかけた碑などを巡った。帰りは京の中心の寺の紅葉も訪ねた。どこの寺も紅葉狩りの人で溢れていた。でもどの寺を訪ねてもお坊さんには会わなかった。私は数珠を持ち心経を誦した。京の名所の寺のみが、お坊さんは寺にこもっているのだろうか─。護摩を焚く天台、真言の寺が少ないためか。でも三千院も曼珠院も天台宗の名刹。さすがに、どの寺も庭の紅葉は真っ赤に燃えていた。秋日に紅が透けてもいた。
「梨の芯の会」発足三年目の十月は神奈川県の美女谷温泉一泊の紅葉狩だった。みな三十代の男性に二十代・三・四十代の女性が混じっての旅だった。たしか十五夜にめぐり合ったが、谷に霧がかかって名月は見られなかった。が、谷紅葉を満喫した。帰途は、炉端焼きで有名な「ウカイトリヤマ」で旅を締めくくった。篝火が焚かれ、一座ごとに炉を囲むことが出来るようになっていた。会のスポンサーの阿部六陽画伯との初の旅でもあった。句会は二日で四回もやった。
一回目の京の紅葉狩りは栂尾、高雄、槙尾と三尾の寺を訪ねた。中でも栂尾の高山寺の紅葉は名木の桜を見たような感動を憶えた。もちろん、鳥羽僧正の「鳥獣戯画」も拝観した。私の家内は団体旅行はまったくダメなワガママ奥さん。それが「妻かなし噛みゆけばある梨の芯」の句集名から生まれた会の大がかりな京の吟行。しかも、梨の稔る十月ということで、やっと重い腰を上げた。着物だった。グループから離れ高山寺の高い外廊下の端から谷紅葉を眺めていたうしろ姿が今も目に焼き付いている。妻が会の吟行に同行したのは、最近の「吉田の火祭」と京の旅のたった二回だった。この旅は奥嵯峨の“あだし野の念仏寺”にも詣でた。たった一本、大樹の紅葉が妖しいまでに赤く染まっていた。あまたの石仏に手向けられた、ろうそくの炎のゆらめきと紅葉。謡曲の舞台になると思った。
暮の秋闇の厚みの夜々深み
冬 男
「十月も末になると、雁や鴨などの水鳥が渡ってくる。日暮れも早くなって夜のとばりが厚くなる。火が恋しくなる。
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十一月。初しぐれが降り、木守柿の朱が目立ってくると、もう立冬─。