■ 冬男の歳時記 《冬》
冬立つや伽藍の天のなお深み
冬 男
05年の立冬は七日だった。それにしても、今年の晩秋の十月は行楽シーズンだというのに、日本列島は土・日はほとんど雨だった。ウィークデーも空の機嫌はあまり良くなかった。十月三十一日から二泊三日の福井への旅をしたが、この三日間だけは晴れた。武生(合併して越前市)の国民文化祭連句大会へ出席のためだったが、紫式部ゆかりの武生の日野山(武生富士と呼ばれる)も全く紅葉していなかった。東尋坊や永平寺などの道すがらも、紅葉は目に入らなかった。
立冬前夜も雨の日曜日。さすがに寒さを憶えた。二階の書斎の窓から近くの枇杷の花はほつほつと秘めやかに咲き始めた。
冬帽の忘れていたる日の匂い
冬 男
駆け出し記者のころは、冬は鳥打帽をかむり、オーバーは二つ持っていた。昼は重ね着にオーバー。火事などの夜の取材には厚手のオーバーが必要だった。平成の世のように、警察署も官公庁も、だるまストーブを焚いていた。しかし、全身をぬくめるほどではなかった。手袋もマスクも欠かせなかった。空っ風が身をせめた。
昼間、ふと自転車のペダルを踏むのを止めて、小公園で憩いをとったとき、ふと手にした鳥打帽に太陽の日射しが溜まっていた。冬日の恵みの暖かさが伝わってきた。昼も夜もなく取材に明け暮れる日々。ふと自分を自然によって取戻す時が時にはあるものだ。いち番、仕事でも自然と向き合うのは、農村の風景である。最近は、ようやく新聞でもテレビでも富士の初冠雪や酉の市の画像が季節を告げる風物詩として取り上げるようになった。
「立冬」の風景を探すのは実にむずかしかった。刈田跡に横たわる「捨て案山子」でも「枯芒」でも絵にならなかった。地方版でも各地の主要都市に記者がいる。その記者たちも、季節の節目節目の写真ニュースは掲載を競い合うことになる。ただ一度、刈田にずらりと並んだ「わらぼっち」とたわむれる子等を「立冬」の景としてスナップしたのが本版の真ん中を飾った。今は、自動稲刈機だから、刈田にのこる「わらぼっち」はほとんど見当たらない。やっと見つけても、穂が短く、背の低い貧相なもので写真に撮りようもない。
掌に残る石のぬくもり初しぐれ
冬 男
十一月の野外の取材には、よく「しぐれ」に遇った。本当に、さあーっと曇った空から雨粒が降ってきた。日光連山や赤城嶺には日が当たっていいながらだ。掲句は、忙塵の中で遇った初しぐれを、ふと触れた石に残っていた日のぬくもりと取合わせたものだが、今では、こういう初しぐれの句は出来ない。
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十二月は師走─。昭和三十年ごろはもう歳末商戦は形こそ、今とちがってはいたが、激しくなった。
暖炉燃ゆ純粋の日は遠くなり
冬 男
歳末大売り出し、冬至、酉の市など行事も立て続けにやってくるし、強盗などの事件も頻発した。だるまストーブを囲んで、記者クラブの各社の記者と暖を取り合う時間もあった。そのストーブの火に手をかざしながら、寺の庭で子供同士で焚火を囲んだ日のことが思われた。
仲良く話し合いながらストーブを囲んで談笑する記者仲間なのだが、ストーブを離れて、街の中に散って行くと、翌日の紙面への記事の競争が始まる。これが毎日のことに変わりなかった。致命的な特ダネでない限り、翌日の新聞のA紙に“特ダネ”が載ったりすると、お互いに「今日はやられたネ」と言葉が交わされる。
熊谷通信部勤務時代の冬だった。今は自衛隊になっている篭原が米軍キャンプであった。キャンプの米軍相手に、バラック建てのような酒場やあやし気なクラブが軒並みに出来て、小さな“バー街”となった。ところが米軍が引き上げてしまったあとは、この“バー街”のネオンが次々と消えていった。
そんな十二月、けたたましく消防署のサイレンが鳴った。“バー街”の地名は「十六間」といった。その、バーの空屋の一軒が燃えたのだった。記者となったとき、先輩にいわれた言葉の一つに「殺し三年火事七年」というのがあった。自殺か他殺かの取材は三年も経験すれば、警察と渡り合えるようになるが、火事(冬の季語)の取材の他社との競争に一人前となるには七年もかかる─というのだ。事実、火事の現場は野次馬などでごった返し、大きな火事では、まず焼けた建物の坪数、出火の場所、漏電か失火か放火か─の判定の記事を書くのは実にむずかしい。消防署も警察も簡単にはしゃべってくれない。まして焼死者が出た場合などは尚更。今では、失火か放火か判らないうちは「不審火」としてかたづける。しかし、火事のあった日だけで火事の取材は終わらない。「放火」だった、という特ダネを取られたらおしまいなのだ。殺人現場へはあまり足を運ばなくても火事跡や周辺には小マメに足を運ばなくてはならない。“十六間のバー街”は、一週間置きぐらいに火事が起き、店が焼けた。おしまいのころは、四・五日置きくらい。真夜中で凍てついた現場へ、その度に通った。商売が成り立たなくなっての“放火”ということになっていたが、証拠がないから“放火”と書けない。そのいらだたしさは今でも忘れない。とうとう“バー街”が十軒近く焼けてしまっても、事件は片づくことがなかった。
昼火事の衆愚の中に記者もいし
冬 男
火事の取材の自嘲の一句である。明るい思い出もある。今は、新聞だけでなくテレビでも放映されるようになった、群馬県鬼石の「冬ざくら」の取材は、俳句も作っていたこともあって楽しかった。はじめは、今でいうと町起こしの楽しみに植樹されたもの。もともと、“鬼石の桜山”には野生の寒ざくらが数本あって、十二月になると小さな花をつけた。これに目を付けた町が町費で冬ざくらの品種の苗を買い求め町民に植樹してもらった。やがて山頂一帯が冬ざくらで埋まり、十二月の二十日頃になると、咲き揃うようになった。その前後一週間くらいを“鬼石の冬ざくら祭り”として、町民はじめ観光客に甘酒を振る舞うようになった。その“冬ざくら祭り”を埼玉県北の記者クラブが群馬県へ越境して写真取材を試みた。みな珍しかったので、寒い師走に“冬ざくら祭り”─と、全国版に写真と記事が載った。一度、昭和の終り頃、山火事で桜山は全山焼けてしまった。しかし、再び植樹運動が行われ、今度は、冬ざくらや寒ざくらも植えられ、再び“鬼石の冬ざくら祭り”は見事に復活した。
舞うほどの花びら持たず冬ざくら
冬 男
鬼石での作の一句だが、何と平成二年頃だったか、日本テレビの夕方に、この句が画面一杯に映し出され、偶然これをみてびっくりした。多くの門人からも、冬ざくらの句をテレビで見た─と電話がかかってきた。俳句は、思いもかけず“独り歩きする”ものだ。
玉三郎気安く抱かれ羽子板市
冬 男
歳晩は、「年の市」「ぼろ市」「飾売り」などの市が立つ。東京の人形の老舗が店を閉じたが、浅草の羽子板市はなお盛ん。年ごとに賑わうようになった。記者のころはクリスマス・イブの取材はなかった。今は、若者のデイトの夜。お台場や、ディズニーランド、汐溜など大晦日の除夜参りや年越しの初詣と東京は灯と人のルツボとなる。ラジオ時代からのNHK紅白歌合戦は、もうじき姿を消すだろう。しかし、亡びそうになった日本の歳晩から新年にまたがる行事や習慣はよみがえりかかっている。
年行くやたがいに知らぬ人流れ
冬 男
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一月は元旦の空から明ける。06年の干支は「戌」─。
かつて、記者は正月三日くらいの休み。泊りが当たれば暮れも正月もない。
初日記にじむはインクのみならず
冬 男
日記は母の薦めで、中学生頃から書き始めたが、大学二年頃より作家をこころざして、日記にも力が入った。日記も短文の中に最大の情報を記録するため、記者になってから大いに役立った。取材手帳は4Bのエンピツ。日記にはインクのペンであった。「あした」の創刊から協力してくれている零雨門の小谷伸子さんが、朝日新聞に「日記を書き続けて三十年?」という寄稿文を書いたら全国から「日記マニア」の手紙が殺到した。相談されて、「日本日記クラブ」を創立し、事務局長的仕事をした。創刊間もなかった「夕刊フジ」の編集長だった蒔村邦苗さんが〈最後はフジテレビ専務〉“人物登場欄”に、どかんと“日記クラブと日記帳あれこれ”を私の顔写真と共に載せてくれた。
しばらくして、NHK教育番組のセカンドライフに、暉峻康隆先生と共演で「お達者クラブ」の司会と童謡を歌っていた小鳩くるみさんの番組があり「日記をつけよう」という新年番組に冬男と伸子さんが出演した。三崎千恵子さんらが共演してくれた。その時、母と私の親子日記を一部公開「初日記」の句の色紙がクローズアップで放送された。その翌年だったか、暉峻康隆先生が団長となり先生の教え子や画家、くのいち連句の連衆、それに加えて小鳩くるみさんも同行。とても楽しい中国古都巡礼が出来た。くるみさんは今や大学の教授になったが、中国の旅で出てくるお料理を全てカメラに収めていた。日本でも初にお目見えのお料理は全部カメラに収めているとも云っていた。今、お料理を写真に撮る全国的な趣味の会が出来たという。面白いことだ。
凍死者の掌の雪ほどくより解けぬ
冬 男
十五日正月などに浮かれているうち、寒波がやってくる。今はホームレスもけっこう、ちゃんとした身なりをし、発電機も持っているという時代になった。昭和三十年代では、まだ浮浪者も目立ち、凍死者を取材したこともあった。身元を洗い出し、家族を追ってみるとドキュメントにもなった。06年の寒はまた暖冬なのだろうか─。
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二月にはいるとすぐ「立春」─。
鬼やらうもっとも闇の深きところ
冬 男