■ 冬男の歳時記 《春》
平成十七年の立春は二月四日だった。お正月を祝ったと思ったらもう立春。時の流れの速さに心がつまづく。
寒は、昨年の猛暑、台風、中越地震と相次ぐ天災に加え、越後や東北はどか雪。中越の被災地帯は豪雪に見舞われ、家がつぶれている。
それなのに、春はやってくる。八丈島や沖縄や屋久島まで雪が積ったのに。
寒明くる展けし空の水色に
冬 男
寒中の張りつめた空も、色が春へ移ろってくる。一枚の鋼のような空がほどけ、水が流れるように柔らかく、鋼から、たおやかな布の水色に変わってゆく。
春が立った二月は、受験シーズン。そして大学生は卒論の卒業審査を受ける時。今はもっと早まって居るかも知れないが─。
私は大正大学文学部の哲学科に入り、おもに比較宗教─仏教とキリスト教─を学んだ。卒論のテーマは、秩父市郊外の芦ヶ久保の「民俗信仰の成り立ちと今」であった。多くの卒論は、テーマを決め、先人の文献をあさり、重ね合わせて自分の見解で締めくくられる。それがイヤであった。研究室に篭らず、実地取材してナマの検証を論文にまとめたかった。私の生家の近くに埼大の教授をしていた新井博士から「仏教とキリスト教の比較を学んだのなら、日本の民俗信仰をテーマにしたら─芦ヶ久保の集落に今も残っている、成人になるための“お篭りの儀”がある。冬で厳しいところだが、古老に会って取材したら」という、アドバイスをいただいた。卒論の提出は年末だった。その時、もう産経新聞社(当時は産経時事)の入社内定の通知を受けていた。十一月初めから一週間、母の計らいで秩父神社の奥座敷に泊めていただき(寺でなく神社だからよかった)一日数回きりバスも通わぬ芦ヶ久保の集落へ通った。集落の中に、その年に成人を迎える(成人はお正月である)男児が篭る小さな家があった。寒かった。手足がかじかんだ。メモを取るのが大変だった。古老が囲炉裏で「おっきりこみ」という煮ぼうとうを振る舞ってくれたりした。お篭りの青年達は白装束であった。水垢離もした。“お篭りの家”は堂ともいわなかった。本尊さまはご幣束であった。すなわち、日本の神と仏教の密教が混じり合って、逆に神道でもなく仏教でもなく偶像を排したアニミズムの世界であった。年末までに卒論は一気に脱稿した。今、芦ヶ久保の集落は西武線特急ができたためトンネルの上に置き去りになった。
二月の論文審査がパス。いよいよ論文が借り物でないか、主任教授との対面審査が有った。教授がいわく「小久保君のような卒論は珍しい。色々の文献の引用がほとんどない。仏教とキリスト教の比較を哲学の立場から学んでいたのを生かし、宗教学の中の“アニミズム”を取り上げた。論考も実証的で写真も付いている─びっくりしました」と、にっこり語りかけられた。そして、「ところで小久保君は卒業したらお寺を継ぐのでしょう。天台宗で、在学中、すべての実習も行(ぎょう)も終わったし」といわれた。「実は教授、兄ともめたので教授には推薦状はお願いしませんでしたが、兄の末寺を継ぐのを断り、新聞記者になるため、朝日、読売、産経時事新聞社の入社試験を受け、朝日は三次試験で落ちましたが、読売と産経時事にはパスしました。産経の社長は“今太公”と言われる前田さん。社長の人柄に感じ、産経の入社を希望し、入社内定通知をもらいました」と告げた。「ほう。大正大学からマスコミへ入るのは君で三人目の希少価値。おめでとう。」といわれた。二社にパスしたのは、天台、真言、浄土宗の三派で創立された仏教大学で、哲学を学んだ─ということが変わり種を求めている試験の幹部の興味を引き、筆記試験でもそれを強調した。面接のときも質問が集中した。
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三月は雛の月。自分史について書き続ける。大学の総合成績は決して良くはなかった。特に四年期は三年生のとき、途絶していた「大正大学新聞」の復刊を図り、埼玉新聞社で新聞を刷った。編集長が、兼発行人になった。学生の組織である「学友会」の理事にもなった。(学長の任命)
そんな折り、理事長の小野塚幾澄君から、今が大変な大学の危機。学園の半分が経営難で豊島区へ売却が決まった。今からでも遅くない。立ち上がろう─と話が成立。当時、宗教欄が充実していた毎日新聞社へかけこみ、切り売りに反対している教授や助教授、理事の一部からの情報を提供した。毎日新聞の全国版の社会面のトップに、“仏教大学の名門大正大学の学園が半分に─”といった見出しで特ダネとなり、全国の天台、真言、浄土の名門の寺などに衝撃が走った。追っかけるように「大正大学新聞」の編集長として、毎日新聞に載りきれなかった、切り売りに至る経緯を徹夜で書いた。今、新聞を騒がせている西武の提先代社長の秘書となり、のちにPR会社を起こし、一代で会社を有名にし、女優の藤村志保を妻にした靜永純一君は、副編集長としてペンをふるってくれた。東京・芝・増上寺の寄宿生で、優等生だった。この新聞を、全国の大きな寺院の住職に増刷して送った。お金が集まれば売却はしないで済む。豊島区の区議会も土地買収を議決していた。しかし、学長と教授会、理事会の最後の譲渡に署名する会議を学友会有志を挙げて阻止。まったく皮肉にも当時の学長だった同じ宗門の、川越の喜多院の塩入大僧正を学長室に監禁した。譲渡の署名は不可能になった。私ら学友会理事は巣鴨警察署に呼ばれて始末書を書かされたが「不当監禁」の罪はまぬがれた。ただちに、赤字となった大学の金を埋めるため、理事会が十班に分かれ、全国の有名寺院を巡って資金を集めた。私は、天台宗の地元である三重、滋賀、そして奈良を担当した。
募金は成功し、大正大学の負債は埋まった。
卒業式の日、私は、小野塚君と共に、新しく学長になった椎尾辨匡(芝・増上寺貫主)博士から、表彰状と記念品を授かって椎尾大僧正の「信楽」という半折の書を頂いた。
三回も卒業式の檀の前に出ることになった。もう、そのころから「新聞記者」の玉子だったのだ。その講堂は、「明治村」に移築され保存されている。建築美が認められて。
卒業や文学青年ひきずりつ
冬 男
四月は、入園、入学のシーズン。さくらの花びらを浴びて、ランドセルを背負って。大学生は、今は、服装がばらばらで、学生かサラリーマンか判らない。そして「新入社員」も誕生。昭和二十八年四月、私は産経時事新聞社の編集局へ入社、浦和支局勤務を命ず! という辞令を受けた。前年に採用内定のときから、浦和支局への出入りが許されていた。当時の産経新聞は大阪から東京へ進出したばかりで、新聞合戦の皮切りであった。(二十八年は不況で大会社は新入社員をしぼり込んだ。就職難の年だった。この年大企業に入れた“社員”は<花の二十八年組>と称された。)
浦和支局は、浦和駅近くの県庁通りのオートバイ店の二階を借りていた。山田支局長は同盟通信社の記者として、中国戦線を取材した従軍記者の経験者で、舌鋒鋭く他社から引き抜かれてきた記者に向かっても、記事のチェックで激しく怒鳴り散らすのを目の当たりにしていた。当時、記者は4Bの鉛筆を使い社名入りが誇りであった。鉛筆削り機もなく、見習い記者はナイフで何十本もの鉛筆を先輩のために毎日削ったことか。
浦和支局に配属されると、先ず県庁の記者クラブへ挨拶。あとは浦和地検、浦和地方裁判所、浦和署と浦和市警(当時は、国家警察と地方警察の二つがあった。)などを回った。支局は本社へ昇進するためのステップで、県庁で(政治記事 ― 政治部)、警察で警視庁クラブ(事件記者 ― 社会部)の取材の勉強と記事の書き方を習うシステムであった。
山田支局長に、はじめて試された取材は、四月に入った“春の風物詩”を見つけて来て写真と記事を書く事だった。支局には専門のカメラマンはいない。大事件は本社から来る。写真撮影も記者のテリトリー。カメラは好きだったから自信はあった。自転車に乗って浦和市街をめぐった。街角で運よく「風車売り」が店を出していた。ファインダーをのぞきながら考えた。写真による季節の風物詩だから、買う子供はむしろ要らない。風車売りの小父さんさんの表情と、春風に乗ってくるくる回る風車をクローズアップで― と決めた。十枚くらい撮っただろうか― 。今の新聞は地方版の紙面でも、全国版の紙面でも“季節の写真”は少ない。有名な祭りや行事はあつかっても。当時は紙面の息抜きと季節感たっぷりのスケッチを読者より先取りして紙面に載せるのもニュースのひとつの目玉だった。
支局に帰って記事を書いた。写真が中心の記事は“絵とき”といって、写真を引き立てるよう、軽いタッチで記事を書くのがコツ。俳句をやっていたお陰で零雨先生から画賛の句の書き方を学んでいた。風車の写真に、風車の説明はくどくど書くまい。― 俳句には“風光る”という季語がある。何百本も売られている風車が回るさまを、風がきらきら光って、街角へ春を振りまいていた― というような文章を書いた。恐る恐る支局長へザラ紙の原稿用紙へ書いた文を提出した。写真は暗室でアルバイトの“坊や”が、すぐ現像して焼きつけ、引き伸ばしてくれた。支局長は、しばらく写真と文章に目を通して、やおら言った。「ウンなかなかやるじゃないか。スケッチ写真は、サクラの子供を使って風車を買わせる小細工をしたくなるものだが、風車売りの顔と、ひたすら回っている風車のクローズアップで春の季節感がよく出た」「記事の文章は、少し文学青年くさい文だが“絵とき”記事としては八十点。明日の朝刊の埼玉版の真ん中へドカンと載せる」と言ってくれた。カミナリは落ちなかった。翌日の紙面に支局長の云った通り“― 街なかも春本番”風車売りが振りまく春 ―と記憶する見出しと自分の撮った写真と、絵とき記事が載った。私の初の新聞記者としての記事と写真だった。
今、風車は水子地蔵さんの立つ墓苑では、一年中、くるくる回っているが、風車売りはいない。風鈴や金魚売りと同じに。でも、春の季語として「風車」は残されている。
春愁や空には何も映らざる
冬 男