■ 冬男の歳時記 《夏》

 十七年の立夏は「端午の節供」の五月五日だった。木々は透けるような若葉を佩き始めていた。花前線は北海道へ。沖縄の南端の諸島は早くも梅雨入まじかと、ニュースは告げていた。立夏らしい立夏だった。

 ドイツより招待状の来し五月
   冬  男

 折から冬男の『薔薇は実に…』の句碑をヨーロッパで初めて行政の費用で全額負担して建立して頂いた、ドイツのフランクフルト郊外の温泉保養地であり、世界に薔薇を輪出しているバート・ナウハイム市のローデ市長から「五月十三日から十五日に亘って、新築された、薔薇博物館のあるシュタインフルトを会場にして開催されることになった、初めてのヨーロッパ俳句会議の、同市の主賓として冬男を招待します。来独をお待ちします」との市長のサイン入りの、公文書が届いた。俳句は、最近は“個の詩”になりかかっている。ヨーロッパの詩人達が習い始めたHAIKUも自分で作り、壇上で自分の俳句を朗読するスタイルだった。
 わたしは1990年にドイツで開催された「日独俳句交流大会」に、日本の俳人の代表のひとりとして参加。ドイツの俳人と日本の俳人の間で初めて互選句会が行われた。ドイツの俳人達は、自分の俳句が日本の俳人によって選ばれ披講されると言う体験をした。みな、顔を紅潮させていた。次の年にわたしは国際交流基金で渡独。ケルンの日本文化会館で、俳句のルーツは「連句であり句を皆で作り合うサロン文学だ」と言う事を実例を挙げて講演した。当時のケルンの文化会館の館長は特命全権公使だったドクター荒木忠男氏。その翌年も交流会がもたれ、二冊の俳句と連句の講演記録とシンポジューウムの記録が出版され、ヨーロッパ圏にも伝わった。個人主義のヨーロッパの人達は、サロン文学として連句も俳句もある事を、知ったのだった。ロンドンもそうだった。
 今回のプロジェクトはドイツ俳句協会がヨーロツパの国々に呼ぴ掛け“HAIKUのユーロ化”を図った訳。驚いた事に、十八ヶ国から六十余人の参加の申し込みがあった。その交流会議の主賓として渡独することになった。襟を正した。
 会議で発表する私のテーマ俳句の五句の内、「友情」の一句だけ披露して置く。

 友情をドナウ・ラインが結ぶ夏
   冬  男

ドイツ語は
 Die Donau und der Rhein
 verbinden die Freundschaft
 in diesem Sommer.
(Translated by Mieko Schroeder)

と訳された。この原稿はその旅立ちの前に書いている。
 五月と六月は冬男に取っては『薔薇』と『虹』の季語が生涯の宝となった。会議には三百八十八ぺ-ジの、十五年間の「字咲冬男のヨーロッパの俳句と連句の軌跡」の本(日本語 英語--順子、無量庵訳--ドイツ語 美枝子シュレーダー訳--スウェーデン語 同国の外交官のラーシュ・ヴァリェー氏訳)を上梓。参加者の全員に購呈することが決まった。帰途は同行の先遣の門人とスイスで落ち合い、念願のスイス・アルプスへ登り、マッターホルンを眺めて帰国の予定。五月のスイスアルプスは曇りが多いとか。晴れ男の冬男の神通力と、生家の甥の嫁さんが全同行者に祈願してくれた、常光院の護摩札の加護が頂けるだろう。


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 六月は梅雨の季節。季語を挙げれば「梅雨空」「梅雨曇り」「梅雨の雲」「梅雨の月」「梅雨の星」「梅雨」「荒梅雨」「長梅雨」「梅雨の日」「梅雨じめり」「梅雨荒るる」「梅雨はげし」「梅雨深し」「梅雨ひぴく」「空梅雨」など梅雨の季語がひしめいている。日本に梅雨が無かったら、農耕は成り立たない。

 梅雨荒れをひたすら守る書斎の灯
   冬  男

スウェーデンやノルウェーの「白夜」も忘れられない。

 身を燃やす白夜のパブの海賊酒
 夏至の日やオランダに来て観るゴッホ
   冬  男
   冬  男

 梅雨の明けるのは七月にまたがる。「梅雨」の季語だけで六月の季寄せを纏めたい思いにかられる。梅雨ごもりの子供のころは、アンデルセンの童話や、「ファーブルの昆虫記」「冒険ダンキチ」「真田十勇士」などを読み耽った。「猿飛びサスケ」もあった。

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 七月は盛夏。社会部記者時代には、唯一、息子達と触れ合える夏だった。普段は日本舞踊の師範として、五十人ものお弟子と踊りに明け暮れていた家内も、和服を脱ぎ捨てて、ライトパンにテントなどの登山用具を積み込み、私と代わり番子にハンドルを握った。子供達と私は目指す山の頂上へ。
 家内は下山コースに車を回しこんで親子の下山を待った。車の運転も土地カンも家内には叶わなかった。我が家の車は今も妻名義のライトバン。妻はもう運転不可能だが。
 次男が生まれたのは七月二十三日だった。大宮の県営住宅団地から産経新聞の本社に通っていた。事件記者のころ。一週間くらい帰宅出来なかった。突然にデスクから「ご免ご免、二、三日前に子供さんが生まれたと電話が団地の階下の方から有った。忘れていた--」と言う。与野市に在った日赤病院の産婦人科で緊急分娩したのだった。家内に何の言い訳も出来なかった。廊下をうろうろするだけだった。そう言う男達が他にもいた。

 産院の男おかしき花氷
 七月や生れし次男の名を茂
   冬  男
   冬  男

 そう言えば長男は二月に生まれた。熊谷通信部の地方記者時代。当日は熊谷で親子三人が交通事故で惨死。顔写真集めに走り回っていた。長男は家内の実家のお産婆さんのところで生まれた。熊谷警察署に連絡が入った。夜に本庄の産婆さん宅に駆けつけた。
 でも、初めて授かった長男をどうしても両の手で抱けなかった。網膜に交通事故で惨死した嬰児の血まみれの姿が焼き付いていて消えなかった。新聞記者と言う仕事の因果が思われた。
 わたしの師事していた俳句の師に〈次男誕生〉の句を見せたら(吾子俳句もたまには)と雑詠欄に突っ込まれてしまった。「七月」と言う季語と名前の「茂」が照応するとの評。実は家内にはひとりの兄がいた。鉄工所の後を継いだが間もなく出征。揚子江で船が機雷に触れて撃沈してしまった。遺骨は帰らなかった。戦時工場として結構お国の役に立った工場も閉鎖。母親の面倒は家内が看取った。浅草の松竹のSKDを退団して日本舞踊の稽古場を作り、生活の糧にしていた。その兄の名前が「繁」だった。家内の母を喜ばせようと次男の名を「茂」としたのだった。
 その次男がまた新聞社に入ってしまった。昨年のお正月に六年振りで男の孫ができた。やはり、なかなか会えない。もう走り出している。
 やがて、八月──。旧盆には帰省するだろう。携帯に顔写真のメールが入るが、特別養護ホームに居る家内に、携帯の孫の写真を見せても喜ばない。目の前にやんちゃな孫が走り回らないと、納得しないのだ。