■ 冬男の歳時記 《秋》

 2005年の立秋は八月七日だった。生家の常光院での立秋の投句箱開きに出かけた。炎暑だった。本堂の前の庭にはここ数年ではあまり見られなかった、蝉の死骸があまりにも多く目についた。ふる里の森の草の葉には空蝉が同じようにあまた、すがっていた。
 途絶えかけた蝉の命が、また復活してきたのだ。しかし、立秋の日に鳴きたてていた蝉の声は「みんみん」だった。にいにい蝉の蝉時雨は聴かれなかった。今年の八月十五日は太平洋戦争の敗戦から六十周年になる。六十年前の八月十五日は常光院の大施餓鬼法要が恒例によっていとなまれ、 十余名の末寺の僧にまじって 法衣をまとっていた。熊谷中学二年生─十五歳だった。住職は兄であった。学徒出陣で陸軍に入隊、その夏は埼玉県の村山湖があるところの高射砲隊に所属していて少尉であった。兄は早朝、所沢から熊谷まで自転車で施餓鬼の法要の導師をつとめに帰ってきた。軍服を脱いで法衣をまとったが、正午に末寺の僧と共に天皇陛下の玉音放送を聴いた。兄が緊迫していた八月十四日・十五日のポツダム宣言の受諾を知らないわけはないと思った。そ兄は末寺の僧と昼食を取ってから陸軍少尉の軍服に着替えて所沢の隊へ帰っていった。 あとから思ったことだが、兄は死ぬかも知れない覚悟で“別れの施餓鬼”に上官の許可をもらってやって来た気がしてならない。そのことを聴いておかなかったことを悔いている。私のアルバムには、軍刀を胸に抱いた陸軍少尉の正装をした兄の写真が残っている。遺影になるかも知れない─というスタジオで撮った凛々しい姿であった。除隊の時は陸軍中尉に昇進して復員した。
 当時、 常光院は北埼玉群中条村であった。 村から戦死者が出ると、熊谷市と中条村の村境まで、無言の帰国をする護国の英霊を出迎える役が中学一年生になって私に回ってきた。十九年には、村には僧侶が出征してしまって誰もいなくなった。母が尼となって寺を守っていたが、中学生になったのだからという母の命であり、村の依頼だった。中学校には常に黒染めの衣が置いてあった。十九年の十月頃から英霊の出迎えが急にふえた。そして敗戦。

 八月や校舎に残る尊徳像
   冬  男

 この句は、今年の立秋句会の雑詠としての作。中条小学校や熊谷中学には立派な奉安殿が在った。天皇、皇后の御真影と教育勅語謄本などが収められていた。敗戦で進駐軍命で校庭にある慰霊碑や奉安殿などは取り払われた。ただ戦後六十年過った今も小学校には唯一、二宮尊徳像(薪を背負って本を開いている)が残されているのに胸が熱くなった。敗戦によって失ったものは日本人としてのアイデンテティーだと思う。そして更には、日本人としての国家の教育のあり方だ。

 記者のペン施餓鬼塔婆の筆に替う
   冬  男

 産経新聞の駆け出し記者の二・三年間は、生家の寺と同じ熊谷市の通信部勤務であった。だから、七月末ごろから、八月十日ごろまでは、夜の少しの間、生家の寺に帰って、檀家さんのお施餓鬼の塔婆書きを手伝った。作家になりたくて寺を飛び出してしまった、少しばかりの罪滅ぼしだった。取材のアシは自転車だった。七月から八月二十日頃までの残暑ではシャツにしぼるような汗がじっとりついた。当時、埼玉版の天気予報の記事は熊谷地方気象台から毎日夕刻欠かさず電話取材して記事を送った。いまは衛星写真になった。記事に付ける写真は、自分でフィルムを暗室で切って現像し、拡大して焼き付けた。今はデジカメとパソコン。残暑の暗室は蒸し風呂そのものだった。

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 九月は嵐のシーズンだ。立春から数えて「二百十日」目(陽暦で九月一・二日頃)そしてさらに十日後は「二百二十日」を農家は「厄日」と言った。いずれも九月の季語。台風がよく上陸したものだ。駆け出し記者時代は、北に利根川、南に荒川にはさまれている熊谷通信部は台風襲来の取材の最前線だった。 昭和二十八年頃から三十五年頃までは、台風の気象予報は米軍のレーダーに頼っていた。だから、今のように「台風三号」といった呼び名でなく、台風が暴れないよう米軍は日本へ向かう台風が発生すると、“キャサリン台風”と言った女性名詞が付けられた。今でもそうだが、関東地方へ台風が襲来するのは夜中が多い。本庄、熊谷、行田、羽生の四ポイントが利根川の増水の見張りと決壊に備えてる取材対象であった。熊谷地方気象台への電話や土木事務所、ラジオから情報を取っては荒川、利根提へ自転車で走った。分厚い雨ガッパ。今のように足のコートはなかった。長靴は一応履くが、すぐ水びたし。暗闇の中で堤防すれすれに増水した激流などを写真に撮るのだが、カメラの電池フラッシュはあまり効かなかった。大型カメラでマグネシウムを焚くしかなかった。しかし、まだ雨が降りしきる中で、マグネシウムの粉を閃光台の上に乗せ、しめらないうち発火させるのは大変なことだった。当時は、荒川の上流にも利根川の上流にもダムはなかった。 堤防の決壊の恐れは常にあったし、決壊はまぬがれても荒川、利根川にはさまれた熊谷地方などの低地帯は水びたしになり、家への浸水騒ぎは毎年起こった。

 秋出水思いがけなき人に遇う
   冬  男

 一面水びたしになった家や田んぼの取材に出かけて、出水見舞いにやってきた予期もしない古い顔見知りに遇うことが、再三ならずあった。今は、荒川、利根川の堤防の決壊はほとんど考えられなくなった。しかし、

 今更に二百十日は田の匂い
   冬  男

 最近は「二百十日」という季語が、気象予報士の口からもれることがほとんどなくなった。台風が梅雨末期にやって来たり、稲が稔ったころ、とんでもないころやって来る。台風の発生も「厄日」と重ならなくなった。でも、私は「二百十日」が来ると、さまざまな台風被害の取材の日々を思い出す。社会部記者時代、下町の江東地帯で、当時は“ゼロメートル地帯”といわれた─の大浸水の被害者や家を腰まで水に浸かりながらレポートを書いたことも忘れない。今の江東は超高層マンションが建つようになった。でも台風はこれから天罰のように大暴れする気がする。

 こおろぎひとつ胸の裂け目に降りて鳴きぬ
   冬  男

 九月も中旬頃になると、にわかにこおろぎの声が高くなってくる。この句は、昭和三十六年の作。長い地方記者生活に少し気怠さを感じるようになっていた。入社時からの希望の文化部勤務の辞令が出るのを待ちあぐねていた。こおろぎの声にふいに空虚な思いにかられた。この句は「草茎」の雑詠欄に載ったが、異色なこおろぎの作品として、楠本憲吉先生が俳句の総合誌に取り上げてくださった。ところが、この句が出来て間もなく、浦和支局長から「九月下旬に社会部へ転勤となる」との内示を受けた。文化部でなく社会部だったことで、少し戸惑った。しかし、社会部記者は新聞記者を目指すものの第一の部門には違いなかった。じわりじわりと血が熱く体内を流れるようになったのを憶えている。

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 十月は秋が燦々。でもひっそりとした十月の秋もある。

 雑草の花の赤さや秋土用
   冬  男

 寒露から十二日目が秋の土用の入り。そぞろ寒の頃ともなる。紅葉は美しいが、ふと足元の雑草も赤く染まっているのに感動する。

 柿あかあか日曜もなき記者暮らし
   冬  男

 少しセンチな句だ。今の社会部記者は週に一度はムリとしても二週に一度くらいは休日がとれる。二十年、三十年代は、地方記者や社会部記者は一年中で数えるほどきり休みが取れなかった。労働基準法にも触れることだったが、 自分の意志と責任で 職場と仕事を守った。

 秋涼し嶽に抱かれる湖二つ
   冬  男

 私の心の拠りどころだった、俳誌『草茎』社で、一泊の赤城山の吟行が催されたことがあった。社会部記者時代のことだった。まことに幸運なことに自分のかかえている仕事がなかった。二日間の連休を貰って赤城山の大沼湖畔の宿へかけつけた。そして、一気に地蔵が岳へ登った。大気が澄んでいて眼下に大沼・小沼が見おろせた。そこで生まれたのが「秋涼し」という季語を用いた句だった。記者を辞めた後発行された角川の『図説俳句大歳時記』の「秋涼し」の例句として採録された。句仲間が教えてくれた。社会部記者の忙塵を、赤城吟行で洗われたから出来たのだと思う。

 仙人の居そうな峡よ薬掘る
   冬  男

 太平洋戦争の始まる前年の十月二十二日に権大僧正の父が七十三歳で病死した。小学三年生、十歳のときだった。半年以上病み、大きな体の父が日に日に痩せてゆくのを子供ごころに耐えられなかった。カマキリを取ってきて、黒く焼いて父の足裏にはったことを憶えている。享年七十三歳だった。今、私は七十三歳の秋を迎えた。十月の秩父路の杣径を歩いていてこの句が生まれた。父への思いが重ねられた句。
 記者をしていて、様々な人の、いろいろな死に出合った。心中死体、焼死体、事故死etc。 社会部記者時代は、いつもポケットに数珠を持って歩いた。芭蕉の「無常迅速」という遺語が胸に棲み着いていた。十月が過ぎるともう立冬。


 省るひと日を持ちぬ冬支度
   冬  男

 記者を辞めてから毎日の日記の行数が増えた。