■ 冬男の歳時記 《冬》

 冬立つや寺苑に大き岩ひとつ
   冬  男

 今年の立冬は十一月七日であった。生家の常光院では恒例によって立冬句会が催され“投句箱開き”も行われた。 今朝の冬にふさわしく晴れであった。しかし、集まった連衆の会話は、なお余震の続く新潟県中越地震のこと、 秋になって六個もの台風が日本に上陸し大きな災害をもたらしたことに集中した。アメリカでもハリケーンが荒れた。 人間の行いに天が怒っているように思えてならなかった。
 そう云えば、十五年前から常光院の恒例行事になった十月二十六日の“後の月見の観月句会と茶事・ライブ”も、はじめて一日中雨となり、 境内に篝火が焚けなかった。月光菩薩もかくれてしまった。こんなことはなかった。 古老の言い伝えに〈十五夜に月無し、十三夜に曇りなし〉ということばがある。十月十日は日本中が晴れという“特異日”になっているように、 十三夜もそれに似ているのだが―。十月に真夏日もあったりして。この冬はまた“どんな冬”になるのだろうか―。

 天の冬ごうごうと負い富士くだる
   冬  男


取材を終え山頂近くの鳥居の下でのスナップ写真:冬男
 昭和三十六年十一月五日のことだった。一か月前に、地方部記者から産経東京本社の社会部記者に転勤したばかりで、まだ社会部内での仕事の分担も決まっておらず“遊軍”であった。社会部の“遊軍”は、大事件が起きたとき― 大きな災害や事件が発生した時、担当部署の記者の応援に回ったり、企画記事を書いたりフリーハンドの仕事をこなす。
 十月の末ごろ突然、社会部長に呼ばれた。「日本で開催の日米通商会議に米国代表として来日するユードル内務長官が、プライベートとして“日本のフジヤマ”に登頂したい、と申し出があった。長官は大の山好きでアメリカでもよく登山するという。しかし、今の富士は厳冬である。何が起こるか判らない。登頂に成功したら、これは大ニュース。小久保君“同行取材”してくれ。同行のカメラマンは冬山のベテランだ。」と告げられた。否も応もなかった。取材日までに十日くらいしかなかった。山好きだったから“親子登山”をしたり山の友とアルプスなども登った。勿論、富士も夏に登っている。しかし、冬山登山の経験はまったくなかった。山友達に電話して、冬山用の登山具一式を借りることが出来た。まだ完成間もないサンケイビルの階段を九階まで上り下りして足腰を鍛えた。
 前日、富士山五合目の山小屋に社の無線機械付きの車で、カメラマンと入った。山小屋は取材陣でごったがえしていた。或る社などは屈強な運動部記者が派遣されていた。ユードル長官はヘリコプターでやってきた。がっしりした体格、五、六人のボディガードを従えるだけだった。冬山だから長官の体とザイルを結んでの案内役は、日本山岳連盟会長で、マナスル初登頂を果たした榎有恒氏他であった。当日は快晴。山頂付近はかなりの強風が吹いている。積雪は三十センチくらい。稜線の登山道の新雪は吹き飛んでいるが、登道はアイスバーン。滑落に注意―と知らされた。取材の血が騒いだ。先陣は山岳連盟のベテランと登山家、そして榎さんと長官、そのあとに五、六人の米側派遣のボディガード、続いて富士吉田署の山岳救難隊員、そして報道各社のカメラマンと記者。私はベテランカメラマンの後について、アイゼンをアイスバーンに食い込ませ、ピッケルで滑落を防ぎながら実にあやうげな同行登山となった。頬を切るような風。ザックの中には、当時は実に重たく大型な送稿や連絡用のハンディトーキーが入っている。七合目辺りで米国のボディガード四人もが「アイ・アム・グロッキー」と長官に挙手の礼をした。長官は言った。「OK! カムバック」。これにはびっくりした。あとで長官と単独インタビューしたとき質問した。「フジヤマ登山はプライベートな自分の我が侭。彼等には責任ない。事故を起こされたら日本国政府に申し訳ない。私には日本の名登山家がザイルを結んでくれた。これ以上の親善はない」と。八合目か九合目で夕刊早版の原稿の締切時間になった。取材手帳へエンピツを走らせるどころではなかった。登山道の強風をさけて、反対側の稜線へアイゼンを食いこませ、左手でハンディトーキーを取り出した。一歩一歩アイスバーンを登りながら考えつづけてきた原稿内容を、もう一度、頭の中で整理して、本社の社会部のデスクを呼び出し、原稿なしで記事を送稿した。長官は酸素不足をものともせず登頂を続けていた。長官登頂成功の記事は頂上の浅間神社の奥社のところで送稿した記憶がある。長官のすごかったのは、登頂成功のあと、榎さんらの案内で厳冬の山頂の“おはちめぐり”までやってのけたことだった。私は山頂での送稿で精一杯だった。しかし、登頂成功の感想を長官から聴くまでは下山できない―と思った。他社の記者はほとんど下山をはじめた。私は待った。そしてインタビューに成功した。「フジヤマに対して私は勉強してきた。単なる名山でなく日本人の信仰の山であること。私のまったくのプライベートの登山がこんなに大さわぎされるとは思わなかった。まして登山家ならともかく、君たちのような記者やカメラマンに仕事のためにフジヤマを踏みにじらせてしまったのは非常にフジヤマに対し、フジヤマ信仰の人達に対してもお詫びしたい。ラフカディオ・ハーンもフジヤマ登山のことを書いている。「夏の富士の登山口に、富士山講の人達が脱ぎ捨てたワラジが山のようになっていた― しかし、そのワラジは信仰の証だ。」と。そして最後に「私は冬の汚れを知らないフジヤマから大きなスピリットをいただいた。ありがたかった」と話を結んだ。  無事に帰社したら、日を置かず社会部長から「君、全国版一頁を取る。ユードル長官の冬の富士山登頂同行記を署名入りで書いてみよ」との命。そんなことは考えてもいなかったこと。また、文章のテストか! と燃えた。
 他社の同行記者は、長官が登頂に成功したことを確認したことで役目を終わっていた。私はそうしなかった。八合目から長官がヘリコプターで富士を離れるまで長官にはりついた。これが役立った。一面を埋めた記事を先程書いた長官の談話で結んだ。
 この文章が編集局の記事審査室委員にルポを超えたルポとして認められ社会部記者としては異例の“特ダネ”でなく文章で受賞した。
 先にかかげた句は、無事に五合目に下山できた折に出来た作品である。

 火の国は社あまたや七五三
   冬  男

今年の国民文化祭は福岡が開催地であった。連句大会へ出た帰り、同行の門人達と箱田神社や天満宮など四か所の名ある神社に詣でた。土曜日で晴れとあって、折から七五三を祝う家族の晴れ姿で賑わっていた。五歳の女の子はほとんどが和装、五歳の男子も一時減った羽織袴がほとんどだった。日本の伝統は亡びていないと思った。しかし不思議だったのは、七歳の女子の七五三の姿がほとんど見られなかったこと。七歳までは親がお金をかけられない―ということかと案じた。十四日の産経新聞に、大阪の四條畷神社で男の子の「十一詣(まいり)が五十九年ぶりに復活されたと〈産経抄〉が書いていた。この神社は楠木正成の長男、正行(まさつら)公が祭神である。湊川の合戦に赴く正成から父の意志を継ぐように言われた正行は時に十一歳だった。正行は父の言う通り南朝のため命を捧げた。十一歳で父の意志を聴き分けたのだ。七五三も、「七つまでは神の内」七歳を過ぎたら社会人の自覚を持つ―という祝いなのだ。楠正行を祭った四條畷神社は十一歳で父の意を継いだように「十一詣」を復活させ“独立の心と親孝行”の心を育てたい―という。現代では、成人式にあばれて世間を騒がせる― 二十歳になっても成人になれない日本人がいるようになった。七五三も親の見栄でなく、子たちにお祝いの意義を教えてほしいと思う。

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 十二月は師走。極月という季語が身に迫る。昭和三十六年ごろの有楽町界隈は“記者の溜まり場”でもあった。朝・毎・読の各本社があった。産経は大手町へ移ったが、もとは有楽町に社があった。師走は事件や歳末の行事が多く遊軍記者も仕事がふえる。自分の書いた記事のゲラに目を通して帰宅するのは深夜。少し早く社を出ると、有楽町のガード下の一杯飲み屋に呉越同舟で記者がたむろする。
 夜ごとのように“冬霧”が真夜のラクチョウを包み込んだ。埼玉で仕事していた身には都心の冬霧の濃さには胸を突かれた。

 冬霧や離(さか)りて住めば深む愛
   冬  男

 突然の転勤だったから当分は単身赴任。土・日の休みなど絵そらごと。新宿に下宿した。妻子にはほとんど会えなかった。息子にはよく手紙を書いた。
 平成十六年の丸の内界隈は大変貌。丸ビルをはじめ、あまたのビルが新築され、大手町へまたがってオフィス街は“ファッショナブルなプラザ”化した。美しい電飾 ―ミレナリオ―。東京駅の音楽広場。変わらないのは浅草の酉の市や羽子板市ぐらいだろう。でも五月人形で有名な「久月」は老舗をついに閉じた。


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 新聞社の元旦は、一年の内、元旦だけ輪転機が止まった。でも社会部記者は当直体勢で各部署に記者は待機。私も遊軍として大晦日から元旦にかけて社の車でカメラマンと明治神宮や浅草などをめぐって初詣を取材した。当時は、どの大新聞でも本社内に輪転機をかかえていた。活字を拾う“文選工”も社内に居なければ、緊急記事は組めないし、輪転機へかける、新聞の組版の変更も間に合わない。輪転機の轟音こそ新聞社のシンボルだった。
 輪転機止まりたしかにお元日
   冬  男

 今は、各社とも輪転機など印刷、発送は東京郊外へ移し、紙面はコンピューター・グラフィックで製作される。編集局の記者のデスクにはパソコンが置かれていて実に整然としている。が、かつては元旦だけが記者にとっては完全休日の日だった。
 社会部二年目に、ようやく大宮市の埼玉県営団地のクジが当たり、家内と長男が移ってきた。しかし、本社からの距離は遠く、新聞社の車で帰るのは午前二時、三時であった。
 正月は寒でもある。まだ、新宿へ下宿していたときには

 寒燈やおのれ知らざるわが寝貌
   冬  男

などの句が出来た。そして社会部記者として一度は勤めなければならない事件記者に配属された。

 吐く息の白し今日より事件記者
 襟寒し死者の写真を抱き戻り
 咳込んで刑事の背ナにある翳り
 昼火事や衆愚の中に記者もいし
   冬  男
   冬  男
   冬  男
   冬  男

 などの句が取材手帳のウラへ書き込まれた。今の全国紙は一人ぐらいの交通事故死や普通の水死の記事はほとんど載らない。昭和三十年代は、子供が死ぬと記事だけでなく、顔写真が絶対必要だった。悲嘆にくれる家族を真夜中でも訪ね当て、各社が子どもの写真集めを競った。今はたいていの家に写真はある。以前はそうでなかった。学校友達、縁者の家までも探し歩いた。まことに非情な仕事だった。三句目の刑事の句だが、今でもドラマに刑事はかっこよく登場する。しかし警視庁のベテラン刑事はノン・エリート。大事件を追うのは実年や老刑事が多かった。人情は厚かったが、捜査の執念はすごかった。特ダネを追う記者と犯人検挙に寝食を忘れる刑事とは敵同士。でも一方では意気投合すれば互いの情報の交換が出来るようになる。下町は冬になると火事が実に多くなる。“殺し三年火事八年”という事件記者用語が、今の若い記者に通じるか判らない。殺人事件を担当して犯人検挙まで特捜班を取材できるようになるのは三年は経験が要る。しかし、なぜ火事の取材がベテランになるのに八年もかかるか? 実は小さな火事でもかならず現場を踏まないと家の燃えた坪数、出火場所の早い確定は取れない。焼け跡に行方不明者がいればなお大変。消防や地元の警察の発表の前に第一報は記者の判断で書かなければならない。四季の中で事件記者にとって一番つらくきびしいのは、歳末から寒中だった。事故か放火か、更に殺人へ発展しかねないのだ。

 冬銀河寝顔のほかは子と逢えず
   冬  男

 或る日、幼稚園に通い出した長男が真剣な顔をして「お父さん、今度の日曜日、新聞社を休んでほしい。ボクは親無しっ子だとイジメられている」と涙をぽろぽろこぼした。午前さまで、社へ出るのは十一時ごろだから、子供たちはもう団地にはいない。早起きして午後の出社ということをデスクに頼んだ。日曜が来た。十時ごろになると二階が住まいだった私の家の下が、子供の声でさわがしくなった。長男が顔を紅潮させて階段をかけ登ってきた。「お父さん! 早く一緒に庭に降りて! 」と呼んだ。手を引っぱられて一階から庭に出ると子供達にワッと囲まれた。長男が叫んだ。「ここにいるのがボクのお父さんだ! 親無しっ子なんかじゃない。」どよめきが起こった。やっと長男の置かれた切実な状況を察知した。「みんなよく聴いて! わたしが、この泉の父親。新聞記者だから、みんなのパパとちがって家に帰れないことも多い。帰っても夜中。社会をよくするために働いているの。わかってちょうだい」と、まわりの子供と握手した。さわぎは収まった。当時は、団地の奥さんは共働きではなかった。しかし、吾が家は、一日おきに妻も本庄の自宅の日本舞踊のお稽古場へ通っていた。カギっ子のはじめだったのだ。思い返せば当時もイジメがあったのだ。でも今のような悲惨なイジメ殺人、子が親を殺すという記事は書くことはなかった。
 
 二月には、また春が立つ―。