■ 冬男の歳時記 《秋》
平成十六年の「立秋」は八月七日だった。じりじりと真夏そのものの炎える太陽が照りつけていた。今年の「夏」は空梅雨と言っていい。 例年より十五日くらい早く関東地方も梅雨明けが告げられた。それからは連日の猛暑。生家の在る熊谷はラジオやテレビの天気予報によく取上げられる。 三十八・九度の猛暑。もう十年くらい前から熊谷の夏の暑さは(冬の寒さも)全国でも有名になった。 でも、ことしは熊谷の猛暑は異常であるし、東京もヒート・アイランド現象を起こし“熱帯夜記録”は五十日近く更新中。 熊谷の格別の猛暑の原因が突きと止められた。東京へ吹き込む関東の風が海へ抜けず、浜松町やお台場付近にできた超高層ビル群にぶつかり、 熊谷から前橋あたりまで吹き返り“フェーン現象”を起こすようになったのだという。
でも、立秋の前夜、北関東は雷雲が発生して、夕立や雷鳴がとどろいた。夕立あとの涼しさの中に、 立秋の朝は庭木や草々が、ひととき“秋”の来たことを告げていた。雷も、稲妻の閃光は“立て光り”は弱く、遠稲妻は横に走った。 狂いつつある地球だけれど、日本の「四季」の折目はやはり、そこはなとなく残っている。
〈秋立つと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる〉の歌の情趣は、異常気象の中で迎えたが、今年の立秋にも当てはまる気配はあった。 その立秋の日も、夕立があった。俳句ではもう「秋の雷」となるb。
残暑光駅の鏡に疵ひとつ
冬 男
三日ほどの旅から東京駅へ着いた時に出来た句である。「秋」と言うと、私には忘れられない一句がある。 三秋の季語だがb八月はお盆が過ぎないと炎暑はなかなか去ってくれない。
秋の水吾が影と佇つ影もなく
冬 男
と言う作品。今からもう五十三年も前の句。正確には昭和二十六年秋。
昭和六十二年一月十五日“俳人協会”の『自註現代俳句シリーズ第V期(6)b宇咲冬男集』という句集に収めた句。その自註には「草茎」の 埼玉大学支部句会へ行き、零雨特選になった。この頃小説を書いていたが、初めて接した師の俳話と人柄に触れ、「作句に一歩踏み込んだ。」と 書かれている。
師の宇田零雨先生と門人として初めてお会いした句座であった。師は、太平洋戦争中、世田谷の俳諧道場付きの宇田邸を、こともあろうに、 日本軍によって撃墜された米機のボーイング29型が直撃し、付近の建物は跡形もなく灰燼に期してしまった。師の一家は縁先の埼玉の蕨市に 疎開していて無事であった。そのころ、埼玉大学に縁ができて、大学の助手や学生による芭蕉の俳諧講義を兼ねた句会が持たれるようになったb との記憶がある。まったく誰も知った人のいない俳席へ、師からの誘いの葉書を手に臨んだのだった。「秋の水」は、その時の“席題”だった。 師は半紙に、筆でさらさらと“席題b秋の水”と書かれ、黒板に張出した。即席で句を作る“題詠”に頭の中は真っ白になった。作句時間は三十分。 締切五分前に、ふいに、筆一本の生活に意を決していた自分に立ち止まった。大学一年生。二度三度の恋はした。青春の真っ盛りだったが、 小説の処女作が世に出るまでは孤独を通そうとした。そして、小短冊に書き留めた句が〈秋の水吾が影と佇つ影もなく〉というフレーズになった。 出席者の選んだ句の披講でも、この句に点が集まった。そして零雨先生の選句が読み上げられ“特選b秋の水吾が影と佇つ影もなくb”と結ばれた。 零雨師は、俳句にロマンの旗を揚げていた。「この作品は、清澄な秋の水が作者を通して詠まれた。作者自身だけの影が映っている。 孤愁感が“影”を二つ重ねて描き出された。作者が若い隅烽君(当時、私は俳句の号は隅烽と称し、作家となるためのペンネームb宇咲冬男bと 使い分けていた。)と解ってみれば、なお更青春の孤独の境地が述べられたものだった」と評された。二十一歳だった。その翌年の昭和二十七年に
でくの笛吹け秋雲は逝くものを
冬 男
など五句が『草茎』の初巻頭になった。この句の自註は、「草茎」初巻頭の一句。ロマンローランやヘルマンヘッセなどの文学書を読みあさっていた。 俳句は、投句のための実作だけで、ほとんど勉強はしていなかったbと自註に書いている。他の人の句も見ず、総合俳誌の存在すら知らなかった。 それなのに、この巻頭句は「草茎」の連衆の大きな話題となった。特に、二、三十代の人の間に。この句も“三秋”である。
八月の初秋に戻ろう。八月という月を括った句は
八月や天にも地にも鎮魂歌
冬 男
に尽きる。広島・長崎に原爆が投下され、旧盆の八月十五日に、天皇陛下の終戦の“玉音放送”に慟哭した。生家の常光院の大施餓鬼法要が行われ、 二十八人ほどの末寺の僧の中に、青僧として墨染めの衣を着ていた。学徒出陣をしていた兄が、急に配属部隊から休暇が出て、導師をつとめに帰郷していた。 (兄は、法衣をぬぎすて、陸軍少尉の軍服に着替え日本刀を持って、埼玉の村山に在った高射砲陣地へ帰っていった。
兄は、学徒出陣の間もなく、アッツ島で玉砕した隊に配属されたが、僧職で書が達者だったため、その頃、戦死者が増え続けた遺族への 隊長の書状書きの代筆や何やら隊務を言いつけられ、アッツ島へ渡る船に乗らず内地に残された。アッツ島へ渡っていたら玉砕して、 その後の兄はこの世に居なかった。
兄は“みほとけの導き”と言い続けた。
地を焼くに宙の焼かるる大文字
冬 男
は、京の迎火の大文字の句。はじめ「花火」は、精霊の送り火として作られ、空に揚げられた。京の大文字は花火のかわりに山腹に大の字の形に篝火として 焚かれた。これも送り火なのである。「花火」はのちに江戸に移り、隅田川の川の霊を鎮めるため六月に打ち上げられ、やがて“江戸っ子”の 心意気を示す打ち上げ花火の競演として、“両国の花火”になった。魂鎮めの花火は、納涼のイベントになったのだ。
石鹸の匂いの母よ盆の月
冬 男
そして
蕎麦の花すでに華麗の日の遠し
吉祥草日のさしおりしひと処
冬 男
冬 男
八月も末のころになると、そこはかとなく、本当の秋が忍び寄ってくる。さびしさのb。
更に、今年の〈秋〉の歳時記に加えておかなければならない事があった。
それは新世紀に入って初めて開催されたオリンピックのこと。八月十三日に、オリンピック発祥の地である、ギリシャの「アテネ五輪」が幕をあけた。 アテネでオリンピックの祭典が行われたのは百八年ぶりである。第二十八回の夏の大会で参加国は二百二カ国にもなった。
開会式を観た。演出は、宣誓につぎ、神話の国から現代のギリシャが中空に吊られた人間で演出された。スタジアムの広場にエーゲ海を表わす“海”がつくられ、その水面に五輪のマークが炎の 環となって炎え立った。
開会式を告げたのは打揚げ花火。閉会も花火の饗宴であった。
聖火は太陽から採取される。“火”は人類が一番最初に手に入れた文明であった。そして“水”の恵み。
“火”は、文明開化の出発であったが、“けがれを払う、聖なる存在”なのだ。
日本でも、八月は京の「大文字」「鞍馬の火祭」「吉田の火祭」に代表されるように、各地で、神や仏のために“火”が焚かれる。各戸の門火も。
アテネの五輪の聖火は、高い高いロケット型の筒の半分が折れてきて点火され、再び空中高く点じられた聖火はロケット型先端に高々と炎えた。 プロメテウスの火である。
あとは“ひかり”の交錯でつづられた。荘厳な開会式であった。現代は原子力の火がともっても、太陽から採取される“火の尊さ”をオリンピックは 人類に教えてくれる。
東京オリンピックも秋b十月だった。
太初の火ギリシャ五輪の秋に燐
冬 男
■ ■ ■
九月は仲秋。陰暦八月の異称には「月見月」「木染月」「紅葉月」「萩月」「燕去月」(つばめさりづき)、「雁来月」(かりくづき)、「葉月尽」と、 まさに九月は仲秋の名月を中心として「紅葉」「萩」「秋風」と秋を代表する季語が美しくちりばめられている。“俳諧の月”と言っていいくらい。
春に日本へ渡ってきた燕が南の国へ帰り、今度は雁たちが北の国から渡って来る。去るもの、帰り来るもの。仲秋は秋の交差点である。
多羅葉に文字書いてみる葉月かな
冬 男
生家の寺に、古い多羅葉の樹がある。近くの小学校の児童が“中条氏”の郷土史の勉強によく常光院へ来る。たまたま居合わせた私が、 児童たちに多羅葉の大きな葉をちぎって、ボールペンの先で一茶の句を書いて見せた。たちまち、葉の表面に〈痩せ蛙負けるな一茶ここにあり〉という 文字が浮かび上がった。子供たちが驚きの声を上げた。この多羅葉が“ハガキ”の元と教えると目をきらきらと輝かせた。自分たちも、葉をちぎって 文字を書いて持ち帰った。パソコン世代の子供でも、教え方によっては、“自然の不思議”“人間が自然の中で生きる知恵”の素晴らしさを 嗅ぎ取ってくれるのだ。
九月は秋の彼岸が来る。
祷りても祷りても曼珠沙華真っ赤
冬 男
彼岸のころになると土手や田の畦に曼珠沙華が突然のように炎え立つ。この句は門人たちと鎌倉の寺々をめぐったときの作品だ。 寺を出て新聞記者になった己れと、曼珠沙華。
台風も多くやってくる。「野分」という季語に惹かれ出した。
歩きつづけるほかなきものか夕野分
冬 男
昭和四十七年の作品。「連句を学んでいると芭蕉が身近になってくる。身近になればなるほど、芭蕉の文学はすごいと思う。 散文から俳句への傾斜が急になった。」と自註に書き留めてある。
初月にきりりと眉を上げにけり
生きていることのみ確かなる無月
冬 男
冬 男
一句目は、俳句・連句に歩を止めては、また歩き出すおのれ自身を「初月」に託して詠んだ。二句目は、名月の夜が、雲や雨でかくれてしまうことを 「無月」や「雨月」と言う。無月なればこそ、かえって、おのれの生を見つめ直す心が湧く。印度の王宮をめぐったら、宮殿に“月を賞でる” さまざまな工夫が凝らされていたことに驚いた。月光が宮殿の屋上に射し込んでくるのを掬いといって、宝石で光りを屈折させ、 地下の湯殿の中に月光を宝石で再現させていた。王達は「観月楼」だけでなく、湯殿の中でも月を賞でたのだ。
そして、観月の習いは中国に渡った。八月十五日の中秋節は“月餅”を作り、月を賞でた。「月宮殿」と言う季語の源は印度かも知れない。 そして中国へ。「玉兎」は、謡に出てくる。「桂男」という月の異称も中国で生まれたのだろう。桂男は月中に住む仙人を指し、 伊勢物語に「月の中の桂男の君にもあるかな」と出てくる。転じて“美男子”のことに用いられるようになった。
季語のうつろいの報道が少なくなった新聞やテレビでも、十五夜だけは忘れずに写真や映像になる。文が少し戻るが、お盆の帰省ラッシュb車や 飛行機bのスケッチは報道されるが、日本人は、八月十五日を中心に、ご先祖様の魂祭りをやる習慣を保ち続けているbというような、 踏み込んだニュースにはしない。今は“信仰の自由”が叫ばれているから、仏教行事としての墓参りやお盆のいわれは削ってしまうのだろう。 私が記者をやっていたころは、お盆のラッシュのスケッチ記事には、そのいわれまで書いたものだった。そう言えば、芸能人の訃報や弔問のリポーターは、 どの局でも故人は“天国へ行った”と、十把一絡げで括ってしまう。“天国に召される”のはクリスチャン。仏教徒は“極楽浄土”そして神道は “神”〈産士bうぶすま〉だからやはり、地に還る。故人の信仰によって、悼みの報道は正しくしてほしいbと思う。もっとも、大乗仏教では、宇宙は仏陀の世界。月にも火星にも “ほとけの国はある”とし、地球は観音様がいま在わしますbと言うことになっているから、仏教徒が天国に旅立ったと表現されても、 目くじら立てて抗議することもなかろうとも思うが、いつも芸能人の訃報の取材のリポーターの発言は気になって仕方がない。
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十月は早や晩秋。秋の花々が咲き乱れる。尾瀬や高原の「花野」bそして原には八千草が咲き競い色を尽くす。
十月の旧暦の異称は「菊月」「菊咲月」「色どる月」「小田刈月」「梢の秋」などの季語がある。「紅葉月」は仲秋であるが、 十月こそ、紅葉月であり、「菊咲月」がふさわしい。連句での特に「百韻=付句を百句連ねる=」では、月・花・恋・神・ほとけ・酒のほかに、 夏は「時鳥」、秋は「紅葉」、冬は「雪」を加えて詠み込むのを理想としている。三十六句の「歌仙」では、これらの“賞味”の季語をみな 入れてしまうと、季語の入った付句雑(ぞう=無季=)の句をせばめ、人生曼陀羅を詠む連句がつまらなくなる。 でも、「百韻」の理想は憶えておいて欲しい。
十月は、まさに紅葉の真っ盛り。春の「お花見」に対して、秋の「紅葉狩」は、今でも国内旅行社のプランに必ず入る。
街路灯ひとつ消えいし寒露かな
冬 男
十月は二十四節気では十月八日ごろの「寒露」から晩秋とされ、十一月七日ごろの「立冬」の前日までが、その期間。
十月や火をいつくしむ海女の眸(まみ)
冬 男
この句は、門人たちと、鴨川や御宿へ吟行した折の作品。いつも「あした」の吟行に同行して下さり、句会の賞品に画賛の筆を執っていただいた 阿部六陽画伯が思い出される。
今回の冬男の歳時記は、新聞記者時代の句や零雨門に入ったときの回想から始まったので、その続きの作品をたどってみる。だから取り上げる句は “三秋”に亘る作品が多い。おもに“自註句集”に収められた句を連ねていく。
転勤や身ひとつ秋の日にさらし
冬 男
昭和三十六年秋。「突然、東京本社の社会部勤務を命ぜられた。長かった地方部記者生活から都会の渦の中へ。妻の実家に(本庄)妻の母(養母) もいたので単身で上京した。」とある。もっと書くと会社の転勤は辞令が出てから一週間くらいで現地におもむかなければならない。 時々書いていることだか、私は入社の時の所属の第一希望は「文化部」の記者であった。新聞記者は、新入社員になると、まず記者としての 取材の基礎を学ぶために、地方の支局へ配属される。県庁記者クラブで“政治”の取材を、県警察本部で事件、地方検察庁で検事の、 そして各地の文化団体をまわって文化関係の取材の勉強をする。“町ダネ”といって、地方独自でつくり上げる取材の人脈網をつかって、 話題の記事も書く。本社勤務になるとカメラマンとの同行取材だが、支局ではカメラも記事の取材と同じに自分で操作し、その腕前が試される。
当時の産経新聞は「産経時事」といって、地方支局の他に、更に各県の主要都市に通信部の開設をやっていた。私が浦和支局へ配属されたのは、 (幸運にも埼玉の出身で、寺の出だったから)=北海道や佐渡などに勤務も命じられる=川越・春日部・熊谷・本庄などへ通信部を開設するためであった。 川越は母の故郷、人脈があって通信部の小さな家が借りられたし、春日部は、産経の新聞店の店先を借りての出発。熊谷にはすでに 東大出の敏腕のS記者がいたが、本庄市には通信部がなかった。本庄もはじめ新聞店を連絡場所にして取材活動と取材網づくりをやった。 当時、産経時事は、朝・毎・読・埼玉・共同通信の記者が常駐できる地方記者クラブの入会ができなかった。一匹狼の取材であって、 記者クラブの発表記事は二時間遅れくらいで資料をやっと入手した。写真も撮ればいいというものでなく、カメラ屋へ飛び込み、現像室を借りて、 自分でフィルムから出稿の写真を選び、拡大、焼き付けまでやった。朝・毎・読の記者はみな社旗をはためかせてオートバイでの取材。私は自転車で、 十キロ、三十キロも先まで取材した。そのハンディは時間との戦いでもある記者にとっては大きかった。その代わり人脈づくりをやったり、 他社の廻らぬ“穴場の”の取材源を作ったため、特ダネは数多く書けた。
地方勤務は二・三年で本社へ戻るのが普通。しかし、熊谷の敏腕記者の関口先輩が自殺してしまい、浦和支局に次ぐ県北のカナメの熊谷通信部に 急遽配属され本社へ戻るのが遅れた。
支局長から電話で「小久保君おめでとう。君は文化部記者希望だったが、出世コースの社会部への栄転だよ。頑張れよ。産経を背負う記者になれ!」と 告げられた。私は動転した。新聞記者になった以上は社会部か政治部の記者が“記者の華”であることは知っていたが、特ダネがいつも社会面のトップを 飾るような取材をやっていたので、社会部への本社転勤になってしまった。いよいよ小説が書けなくなるbと思った。事実その通りになった。
こほろぎひとつ胸を裂け目に降りて鳴きぬ
冬 男
「記者生活を送りながら、おのれに生きることを時たま考えた。秋の真夜はことさらに、こおろぎが部屋の隅に来て強く鳴いた」と自註。
移り来て都(みやこ)の夜霧かくも濃き
冬 男
「社会部内の仕事の担当は一応“遊軍”と言うことになった。警察署の事件記者は一応まぬがれ、社会面の企画ものや“かこみ記事”をもっぱら 書いて新聞記者としての文章がためされることになったのだ。社会部の遊軍は“記者の華”と言われた。上京前は、産経は有楽町駅近くのガード下に 社会部は在った。すぐ、大手町に、有名になったb屋上にヘリコプターも下りられ、国際会議のできる、ホールのある(同時通訳機能つき)の サンケイビルが完成し、強い誇りを抱いたのも確かだった。その新社屋の社会部で仕事をすることになったのだ。
柿あかあか日曜もなき記者ぐらし
冬 男
やがて幹部候補生だから事件記者もやれ!と言うことになった。もう、小説の書けぬ(いつも仕事が終わるのは夜十一時か、午前様だった)鬱憤晴らしは 十七文字で自分の記録が残る俳句を取材記者手帳の片隅に走り書きするしかなかったb。
ポケットの新書汚れて暮の秋
秋灯のひとつとなりぬわが灯なり
冬 男
冬 男
新宿の単身の下宿の布団にもぐり込むか、小さな座り机を前に小文をつづるひとときを選ぶかbであった。
秋涼し嶽に抱かるる湖二つ
冬 男
その社会部記者時代「草茎」の赤城一泊吟行に参加ができた。その折の作品。この句は角川の「図説大俳句歳時記」の初秋の項に入集した。
木の実落つ仏陀夜もなく昼もなし
帰路はひとりの夜へつながるレモン買う
山頂のなほ秋天の底の吾れ
囮鳴く囮になりしこと知らず
冬 男
冬 男
冬 男
冬 男
これらの秋の、私の残る句ができたのも、新聞記者生活が生んだ作品だった。
次回の冬男の歳時記〈冬〉も、記者時代に生まれた作品をつづって見ようと思う。