■ 冬男の歳時記 《冬》
平成15年
十一月八日が立冬であった。今年の秋は短く、立冬になると陰暦のこよみどうりに、にわかに寒さがやってきた。
北風が吹き、紅葉しきれいな欅の葉が空に舞った。あまり音楽になじみの少ない青春を送ったが、オーストリアの作曲家のシューベルトの「冬の旅」は大好きである。旋律の美しさとゆたかさ、そして独特の陰影を持った響が私の胸を打つ。
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「冬」の異称は「玄冬」「冬帝」「黒帝」「玄帝」だが、一般になじみの深いのは「冬将軍」である。この語源は勝利に勝利を重ねたナポレオンが、ロシア深く攻め入ったがモスクワに至ったとき“冬将軍”がやってきて、モスクワから敗退した。このことから「冬将軍」という名が“冬”につけられた。ドイツのナチスも、同じ運命に遭い、モスクワの手前で冬将軍にやられてしまった。
冬の序曲は、落葉と北風。関東の“空っ風”といわれるくらい、埼玉、群馬は体が飛ばされそうな木枯らしが吹く。生家の寺から、東京の大学に通うのに、六キロの道のりを懸命に自転車のペダルを踏んだ。特に帰り道は北風と真向かうことになる。手袋は軍手だったし、耳袋などはなかった。家に着くころは体は汗ばむが、耳たぶは千切れるように痛かった。
さあーっと時雨にも遭った。でも、夏とならんで私は冬が大好きだ。景も大自然も飾りを捨ててあるがままの姿をさらす。
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十一月は「神無月」。日本中の神様が出雲大社へ集まって人間の縁結びの話し合いをする。祭社は大国之命で、社は日本最古の神社の建築様式である。だから、十一月に吹く風を「神渡し」という。陰暦十月(新暦では十一月に当たるが)に吹く強い西風のことを言う。九州の方から出雲に渡る神々の旅を助ける風。
十一月の代表的な祭事は「七五三」。男子は五歳で羽織り紋付き袴で社寺に参る。女子は「帯解」─七歳でおみなになりきる。十一月十五日の日だけれど、近頃は、その前後の、土・日曜日に両親も正装して「七五三」を祝う。敗戦で、この行事もすたれてしまうかに思えたら、お正月より七五三の日には、今の若い両親も競って装う。日本人ばかりか、日本在住のアメリカ人をはじめ外人さんのお嬢さんまで、七五三のよそおいをして有名な神社へ詣でるようになった。
七五三は初冬のファッション化した。古来は男子は十五歳で元服し、大人の仲間入りをした。私は十五歳で母からハカマのたたみ方を教え込まれた。なかなか、ぴしりとハカマをたたみこむことがむずかしかった。私も親しくしていただいた、児童文学者で作家の福田清人先生は、生前、新年の成人の日よりも、日本古来の男子十五歳の日を“元服”に当てて祝うべきだと、常日頃書いたり、発言していた。思えば、少年犯罪は“低年齢化”している。二十歳では間に合わない。男子も女子も十五歳になったら“成人”のけじめをつけ、社会的責任を負わせたらいい─と私も思う。
日本人の古来の儀式は、みな道理にかなっているのだ。
農村では、麦蒔きや蓮根掘り、棕櫚の皮を剥いだり、味噌、醤油づくりが始まる。土間では縄や俵を編んだ。庭先の落葉を尽めた柿の木のてっぺんの二・三粒残された柿(木守柿)の朱さが目にしみる。それも、師走になると、もう裸木のみ。
万葉集では〈み雪降る冬は今日のみ蔦の鳴かむ喜びは明日にしあるらし〉と詠まれ、シェリーは「冬来たりならば春遠からじ」と言った。
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十二月は師走!ちかごろは、お坊さんや店の会計係がかけ足で飛び歩くことは姿を消した。むしろ、早々とクリスマス・ツリーが飾られ、コンサートが演じられ、羽子板市で賑わう。海外旅行の予約もはじまる。“師走”どころか“自走”といっていいくらい。賀状書きも追い込み。関越や東北高速道路はスキーを屋根に乗せた車がスキー場目指して疾走する。
中冬は「大雪 たいせつ」から「小寒」までを言う。〈大雪やあめつちしんと凝る日なり〉と昨年詠んだが、上五の「大雪」を「おおゆき」と読まれ、句評された。二十四節気は忘れられる運命にあるか─さびしい。
農ごよみには、とてもぴったり合うのに。その“師走”の真っ只中に、ハイティーンだった、私、「あした」の編集長の角田双柿などの「若菜会」で、勉強のため縁あって宇田零雨師と玉堂高弟の村雲大朴子画伯を、生家の常光院に泊まりがけでお招きし、北風吹きすさぶ利根川の堤を吟行、お餅をついたり、双柿がナマズをつかまえてきて、天ぷらにした。
その夜、句会が果てたのち、師零雨が君たちに是非、教えておいておきたいものがある。それは「連句」!俳句の本家の連句を知らないで何が“俳句”か!と、たちまち連句の実作会が始った。そして午前三時ごろ歌仙は満尾した。
明けて師が帰りぎわに、常光院へ遺す句を!と、額装にするため半切の和紙に〈芭蕉蕪村一茶の忌あり冬篭り 零雨〉と揮毫下さった。大朴子画伯が、その句に“冬野葉”の画賛をして下さった。今でも常光院の建築文化財になっている応接間に、その句は掛かっている。「冬篭り」などという古っくさい季語など知るよしもなかったが、三俳聖の名が一句にまとめられたのには、ショックを受けた。ショックというより、インパクトだった。
芭蕉は旧暦十月十二日、蕪村は陰暦十二月二十五日(春星忌とも言う)、一茶は陰暦十一月十九日が忌日なのだ。三俳聖の忌があたまに入っていなかったら、こんな句は作れない。しかも「冬篭り」という年寄りじみた季語がが然光り輝いた。俳句の師は零雨先生きりいない─と、そう思った。忌の句にはその○○忌に当季の季語を入れると忌日が鮮明になることも教えられた。しかし、あまりに有名な俳諧の祖や現代作家には、忌の句の中に当季の季語を詠み込むのは、かえって失礼ということも理解した。
十二月の大晦日は、除夜。テレビはかならず名刹の鐘を放映(NHK)。若者たちも除夜詣でにくりだす。一方では、カウントダウンで、ハッピー・ニューイヤーで、クラッカーが鳴らされる。大晦日は、仏教、神道、キリスト教が、日本では境もなく混同する。仏教は、すべてを受け入れるのだから、それでいい。キリスト教やイスラム教は、今でも戦争をしている。
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新年─ 一月はお正月。中冬である。小寒からはもう晩冬。春隣り。臘梅が香を放ち、寒梅が冬枯れの中に紅を振りまく。探梅行に熱海や伊豆や鎌倉へくり出す。
角川刊の第八句集の集名になった『荒星』〈荒星の吹きちぎらるることはなし 冬男〉
の句が話題になっている。“冬星”は違う。荒星は寒星のメイン季語。だから『あした季寄せ─連句必携─』では、寒中の星として『荒星』を独立させた。