■ 宇咲冬男の歳時記 《平成20年 夏》

森の気の寺苑に溢れ来る立夏
   冬男
  平成20年の立夏は“子供の日”の5月5日だった。関東地方はうす曇り。気温は26、8度で確かに夏。新緑が鮮やかだった。町や村には大きな鯉のぼりが、勢いよく泳いでいた。谷川はに幾本ものワイヤーをわたし、五百匹もの鯉をくくりつけ、渓風に泳がせる。
村おこしの演出がテレビに出た。「端午の節句」は、まだ日本に伝承されている。


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  生家の寺の投句開きは欠席し、門人に句会は任せた。7日の早朝車で信州、安曇野に向かうためだった。この“歳時記”も予定稿を書かず、10日に書いている。
  平成18年の秋の一泊“特訓吟行”は、阿智の昼神温泉―信濃比叡本堂―妻籠宿―安曇野の冬男の第一句碑(白日や)の見学だった。もう、古い会員きり知らない第一句碑。
同行者は感激してくれた。
  昭和50年5月に<あしたの会>で安曇野吟行をした。地元に木下富夫門人がいて、阿部六陽画伯は、安曇野から真正面に仰げる常念岳を描くのが好きだったから、吟行地に選んだ。
  折から、安曇野の田んぼは、アルプスからの雪解水が一面に張られ、代掻きが終わったところ。早苗を植えるまえの代田は鏡のよう。残雪の光る常念岳を中心に、アルプス連峰が、代田水に映って、それは山中湖に映る逆さ富士と全く趣を異にした、風景だった。
  <大代田常念岳を映したり> と詠むところ、真昼の太陽に輝き、大代田に影を落とす常念岳と水の眩しさを<韻く>と言いとめた。

白日や一岳韻く代田水
   冬男

と常念岳の挨拶句ができた。
  この句は木下さん、六陽画伯、同行のベテラン幹部から褒められた。俳句の総合誌にも取り上げられた。
  昭和52年晩秋だったか、木下富夫さんから手紙が届いた。
「クリーニング店の前の道路が拡張される。ドライブインを開きたい。その店先に“白日や”の句碑を建てたい。句は六陽画伯が揮豪して下さる。承諾下さい」と。
  当時は、俳壇に名が出てきたばかり。句碑なんてとんでもないと、思った。
  六陽画伯に相談した。画伯は 「木下さんは子供が居ない。よりどころにしたい、と思ったのでしょう。私も日本画ならともかく、天変地異が来ても碑は残る。気が重いが木下さんの言うことを、聞くことにしましたよ」との返事。
  こうして、53年5月6日に木下クリーニング店前の道路に面した所に碑は建った。
本当に内輪だけの除幕だった。 それから、思いもかけず、生家の寺の庭に(大虹の句碑)と、両吟連句碑(涅槃図や)の巻き、続いて、ドイツのフランクフルト郊外のバート・ナウハイム市の薔薇の町―シュタインフルトの薔薇博物館の中庭に(薔薇の句碑)が同市の経費で“日独親善の句碑として、冬男句が刻まれた。生家、常光院にはさらに「日・独・瑞 俳句/連句碑」まで建った。みな、冬男が関わった。
  安曇野の句碑に30年ぶりに対面。同行の門人は、第一句碑は知る由もなかったから感激してくれた。句碑を訊ねた時に、入院していた木下さんが他界してしまった。おくさんも介護の身になっていた。木下家の親族から「由緒ある句碑がないがしろになる。どこかに移設して欲しい」と19年の夏手紙が届いた。六陽画伯も、鬼籍に入ってしまった。安曇野の作品の句碑だから、どこに設置しても良いと言うもものでもない。
  思い切って六陽画伯の嫡子に相談した。
「句碑の句の揮ごうは六陽画伯ですから、画伯の故郷の旧六日町市の、もと後援者に建立場所を探して貰って下さい」と。
  嫡子の阿部辰彦さんは「どうにかしてみます」と言ってくれた。
20年のお正月。阿部辰彦さんから、電話で弾んだ声を伝えてきた。
  「旧新潟県六日町市の六陽画伯の日本画の大フアンだった国際観光ホテル“坂戸城”の社長の二代目が、画伯の書かれた俳句ならそれだけで、移設を引き受ける、冬男先生のことをネットで検索したら、これまた残る句碑になります。喜んで先代の意志を継がせて下さい」と、
  ホットした。5月のゴールデンウイークの終わった直後に、安曇野から六日町市へ移設と、決まった。

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  5月7日午前6時。千葉市幕張市から阿部夫妻の運転するトヨタの大型乗用車が、本庄市の冬男の自宅に迎えに来てくれた。5月7日は句碑の除幕式の行われた日と一日違い。快晴。連休のあとの高速道路はガラ空きだった。
句碑を建ててくれた、安曇野の石屋さんも二代、三代目。打ち合わせ通り安曇野へ3時に着いた。幸いにも木下豊子未亡人が、気分がよく、親戚の付添の方の介抱を受けて面会出来た。長い間お世話になったお礼をし。昨年亡くなった富夫さんの霊前に読経を捧げた。
句碑は小型クレーン付きのトラックに載せられた。
  阿部さんの奥さんは豊科駅から松本へ、別行動になった。安曇野は折からアルプスの水が田圃に満たされ、吟行当時と全く同じに代田になっていた。その代田に残雪に輝く常念岳が、水鏡にくっきり映っていた。ただ、家が大分出来てしまい、パノラマの様なアルプスの景は代田には見られなかった。でも、辰彦さんには<一岳韻く>の表現は理解して貰った。
句碑を積んだ石屋さんお車とわれわれの車は、一路旧六日町に向かった。
今は新潟県南魚沼市坂戸にある「ホテル坂戸城」に3時すぎ着いた。社長の星野輝征氏が出迎えて下さった。無事句碑を運び終えた石屋さん親子はホッとした笑顔になった。
星野社長の決断は早かった。
「玄関の正面の左側には五層の松が美しい緑の葉が盛られている。これと対になるよう玄関正面の右に建立しましょう」と、判断してくれた。
「平成21年のNHK大河ドラマは『天 地 人』と決まった。主人公の「直江兼津続」は上杉謙信の「天の時、地の利に叶い、人の和とも整いたる大将というは、和漢両朝上古にだも聞こえず。いわんや、末代なお有るべしとも覚えず。もっとも、この三事整うにおいては、弓矢も起こるべからず、敵対する物もなし」の遺語を家訓とし、兜に“愛”の字を掲げた。
NHKも今度のドラマは、失われつつある「日本人の品格」を兼続の生涯を通じて描く。ここ南魚沼市もゆかりのあるところ。NHKが作ったパンフレットを片手に語った。
「施主は、このドラマに出てくる柘植の樹にちなんで、句碑は柘植垣で囲おうかー」とつぶやいた、石屋さんに温泉に浸かって貰い、安曇野に送りだした。
  阿部さんお車でホテルの周りをまわってみた。驚いたことに、お米どころの当地も代田が安曇野より広々と水を湛えていた。しかも、六陽画伯が故郷の山として誇っていた八海山の山容が、常念岳の景を圧倒するように水鏡に映って輝いていた。

「六陽画伯の嫡子と句碑の建立場所を提供して下さったホテル坂戸城の社長によって、思いが外なく蘇った。六陽画伯のお陰だった」
5月下旬には句碑の建立となる。過去2年間の迷走を思えば大変な僥倖である。
今度は、ホテルの宿泊客や観光に訪れる人たちに、句碑の由来、六陽画伯の画業が伝えられる。
思えば、30代でデパートの俳句教室の講師に選ばれた。その第一回目の吟行地は六陽画伯の推薦で11月の雪の舞う旧六日町市だった。熊谷の門人が集った。

いちにちの旅いちにちの冬紅葉
   冬男

  この句は、六日町市で六陽画伯が個展を開いたおりに、家内とお祝いに駆けつけた時の句。
 原裕氏が総合誌に取り上げてくれた。思いの深い句。

夏の日や恩愛を享け句碑越に
   冬男 〈安曇野から新潟坂戸城に〉


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  爽快な日に満ちた5月はたちまち走り梅雨を伴って6月に入る。
 梅雨入りとなって稲作農家は忙しくなる。過疎となった農村に、若い都会の女性の田植え風景が見られるようになった。女同志の温泉めぐり。世界遺産を訪ねる旅も慣れて、農村の土いじりの体験が、すごく新鮮になった。顔まで泥で汚しマニキュアの爪も気にせず村民を手助けしたり、(村で稲を植える体験宿泊)のキャンペーンに応募したり。純都会派のOLなどが主体と言うから、一面頼もしい。失礼ながら“泥んこ美容”と同じ感覚ではあるまい。
 麦刈もみんな機械。麦畑の麦の刈られる紋様は、カマで刈った作業と違った収穫美を見せてくれる。畦道には、籠に入れられた嬰児の姿はない。川から田に水を引く水車の出番もない。
 六月の農繁期だけでも、都会のOLの応援が、毎年続くようになったら素晴らしい。
梅雨と紫陽花はもうべたつきだくれど、一番六月を思い出させる。 六月の花はタイサンボクの花、ホウの花、ヤマホウシ、など大ぶりの花が目立つ。 繚乱と咲き乱れるバラも六月の花。みな“大人の花”と言っていい。


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  七月はまさに盛夏。アウト・ドアのシーズン。一方、現代的なマンションでもインテリアにヨシの簾やツタ、などのツル科の植物を壁に這わせたり、窓をおおったりする。エコ運動が広がってきた。今年の夏は暑いとの予報。夏は猛暑でも、暑い方がいい。
 地球温暖化の進行は困りものだが。夏休みの思い出と言えば“登山”に尽きる。その山の友達は、ここ二、三年で10人が欠けてしまった。山男は頑強のはず。でもドクターに聞くと、シニアになって、体力に自信があるばかりに、無理な体の使い方をして肺炎、心筋梗塞、などを引き起こし急死の率が高いと言う。分かるような気がする。
 もう山歩きが出来なくなったわが身を振り返る。せつせつと山恋の気持ちが溢れてくる。 山だけは、ケーブルでもゴンドラでもヘリでも山頂に行けても行く気がしない。苦しみながら、自分の脚で山頂に立ってこそ“登山”だ。 望岳は限りない思いを膨らますけれど、それまで。昨年、ケニアまでいってキリマンジャロを望めなかったのは、返す返すも残念だった。七月の“赤富士”と北斎は永遠であってほしい。
喜寿になった、今年の盛夏をどう過ごすか考えていない。10月が、自分で創刊した俳誌<あした>が40周年になる。思えば、7月はその記念号の編集に“汗滂沱”になっている筈。
水中花夜の重さに泡抱きぬ
   冬男


  八月の立秋は、やはり風の訪れからかー。